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春香とその婚約者の冬児は電車が走り出すまで手を振り続けていて、いい歳した大人二人のバカップル加減に夏彦は隠れてため息をついた。
「そんなんだったらやっぱり泊まっててもらえばよかったじゃん」
「だから、仕事なんだから仕方ないでしょ」
結婚の挨拶にやってきて、二人の両親に勧められた酒を断りきれなかった冬児は車を置いて一足先に東京へと帰って行った。翌日春香が運転して帰る予定だが、姉の運転の荒さを知っている夏彦は気が気ではなかった。
まっすぐに伸びる国道は夜になると交通量がグッと減る。時折通る車のヘッドライトが眩しくてその度に夏彦は目を背けた。寒くもないのにポケットに両手を突っこんで歩く夏彦の横に春香が並んだ。
「勉強どう?」
「んーまあぼちぼち」
「お母さんは結構ヤバそうって言ってたけど?」
「それ一学期の話だろ? 夏休みでだいぶ巻き返したから」
「ほーほーそれは頼もしいことで」
からかうような春香の態度に夏彦はムッとした表情になる。
「それよりさ、オレ上京したら姉ちゃんとこに同居する予定だったんだけど。結婚したらどうすんだよ?」
「新居に一緒に住む? 冬児は多分嫌がんないわよ」
弾むように春香が言った。
「冗談だろ?」
「冗談よ。普通は姉弟で一緒に住むの嫌がるのに、あんたどんだけシスコンなのよ」
夏彦は反論しかけて口をつぐんだ。
「あんた彼女とかいないの?」
「いねーよ」
「寂しいねぇ」
「別に。受験生に彼女とか邪魔なだけだろ」
春香が前に回り込み、ニヤニヤしながら夏彦の顔を覗き込んだ。突然の行動に彼はよろけるように後ずさりした。からかいの言葉をかけようとしていた春香は車のヘッドライトに照らし出された弟の表情を見て真顔に戻る。
気まずそうに目を逸らした夏彦は春香を押しのけるようにして早足で歩き出した。後を追いながら「ねえ」と声を掛ける春香を振り返ろうともしない。業を煮やした春香は夏彦の腕を掴んだ。
「ねえ、海の方から帰ろうか」
「は?」
「いいでしょ、アイス奢ってあげるから。あそこのコンビニまだ潰れてないでしょ?」
「……ハーゲンダッツな」
「ばっか。パピコよ」
国道から道を一本外れると波音が聞こえ始める。早朝から夕方くらいまではジョギングや散歩のコースに使われるこの道もやはりこの時間だと人の気配はない。
小さい頃よくここの堤防で姉と遊んだことを夏彦は思い出していた。五歳年上の姉の背を追い越したのはいつだっただろう? パピコの半分を口にくわえて前を行く姉の背中を見ながらそんなことを考えていた。
「ねえ、もしかして引きずってる?」
「なにを?」
「あのこと」
「あー、んー」
夏彦はそんな曖昧な返事を返すことしかできなかった。一度も忘れたことのなかった記憶。誰にも言えず、姉の前でもずっと忘れたフリをしてきた。
「もしそうならごめんね」
「なんで謝るんだよ」
「なんか、わたしの身勝手のせいであんたに変なトラウマ作っちゃって……」
「いいよ。……気にしてないから」
「気にしてないっていうのもどうかと思うんだけど……」
苦笑しながら春香が振り返る。パピコをくわえたその姿で夏彦の脳裏にあの日の出来事が鮮やかに蘇ってきた。両親が近所に新年の挨拶回りに出かけ、正月休みで実家に帰省していた春香と二人きりになった日。姉の柔らかな肌の感触。鼻腔をくすぐる甘い匂い。そして初めて見た愉悦に満ちた恍惚の顔。
自分がそんなことを考えていることを姉に悟られたくなかった。夏彦はそんな自分を誤魔化すために力ずくで春香の体を抱き寄せた。彼女の口から溢れ落ちたパピコの殻が爪先に当たる。
春香は拒絶するでもそれに応じるでもなく惚けたように立ち尽くしていた。夏彦はまるで人形を抱いているような虚しさに襲われたが、今さら引っ込みもつかず力強く彼女を抱きしめた。
波音と自身の胸の鼓動だけが夏彦の耳を叩く。その鼓動が姉に伝わらないように少しだけ腕の力を緩めた。姉は今なにを考えているのだろう? 身じろぎ一つしない姉。表情も窺えない。夏彦の頭には悪い想像ばかりが浮かんでしまう。それでもこうなってしまえばもう本当の気持ちを隠しようがない。
「ホントに結婚するのかよ」
聞こえていないはずがないのに春香は無反応だった。それでも構わず夏彦は続ける。
「あの人、冬児さん三十五だっけ? 姉ちゃんの一回りも上じゃねえか。それに知り合ってまだ半年なんだろ? ホントに大丈夫なのかよ」
春香の髪が風に揺れた。その些細な動きを夏彦は頷いたものと勘違いした。顔が、体が熱くなる。やり場のない、怒りにも似た感情は彼の指先に力を込めさせた。
「ねえ、痛い」
かすれたような春香の訴えを今度は夏彦が無視する。
「結婚なんてするなよ」
「するわよ」
怒気を帯びた声に夏彦は思わずうろたえる。
「どうしたってあんたと一緒にはなれないんだから」
姉弟なんだから、という呟きは波音にかき消されて夏彦には届かなかった。
「じゃあなんであんなことしたんだよ。あれがなければオレはこんなに……」
「それはごめんて言ってるでしょ」
「ごめんじゃなくて、なんでだよ!」
「……あの日のことはわたしが間違ってた。謝ることしかできないけど、なんとか忘れて欲しいの」
「……わかったよ」
言葉と裏腹な不服そうな言い方だった。
「でも最後に教えてよ。姉ちゃんはオレのことどう思ってたの?」
「そんなの……」反射的にこぼれそうになった本音を春香は慌てて飲み込む。それを口にしてしまえば同じことの繰り返しだ。
「そんなの……弟としか思ってないに決まってるでしょ」
いつからだろう、夏彦のことを異性として意識し始めたのは。彼がシスコンとからかわれる前から、春香は同級生からブラコンのレッテルを貼られていた。少女漫画の影響で、もしかしたら血が繋がってないかもしれないと期待を込めて疑ったりもした。
あの日の過ちを後悔しなかった日はない。あの日から弟の自分に対する態度が変わったことにも気付いていた。だから会社の先輩に紹介された冬児に早すぎるプロポーズをされた時も迷うことなく即答した。これで弟が真っ当な道に戻ってくれると思っていた。
ふいに夏彦の腕が緩んだ。優しく肩に手を添えながら体を離す。春香がゆっくりと顔を上げると思いのほか近いところに夏彦の顔があった。ぼんやりとしていた春香は夏彦の顔が近づいてきてようやく彼のしようとしていることを察した。
「それはダメ! なに考えてるの? わたしたち姉弟なのよ」
夏彦のキスを避けるために顔を背けて彼を押しのけた。
「姉弟の一線を先に超えてきたのは姉ちゃんの方だろ?」
「もうこういうのやめよ。わたし結婚するのよ?」
「姉ちゃんが正直に本音を言わないからだろ」
春香は乱れた息を整えながら海を見た。月の隠れた夜空との境界線がわからないくらい真っ黒な海。自分たちもいつからかこんな風に境界線を見失ってしまっていた。姉弟と男女の境界線を。だとしたらもう一度光を当てて元の関係に戻らなくてはならない。春香は大きく深呼吸をして、夏彦の方を振り返った。
「帰ろ。お母さんとお父さんそろそろ心配しだす頃よ」
「自分ばっかり大人ぶるなよ」
すっきりした穏やかな春香の表情に夏彦は不服そうに口を尖らせた。
「大人だもん。だから結婚するのよ」
春香は足元のパピコの殻を拾い上げ、反対側の手をひらひらとさせた。
「手くらいなら繋いであげてもいいけど?」
うるせえよ、と言いながらもその手を取る夏彦を春香はかわいいと思い、好きだと思う。でもそれを口にすることはきっと一生ないだろうとも思った。
手を繋ぎ、仲睦まじく歩く二人の影を雲の隙間から現れた月がぼんやりと照らし出した。
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