この世から消えていくもの

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この世から消えていくもの

 美香の右目が見えなくなったのは昨日のことだった。  太一がそのことを知ったのは日付が変わって朝陽が昇る前に帰宅し、駆け寄るように抱き着いた美香が、泣き声を上げながら太一に話した時だった。  太一は両腕で美香を包み、背中を撫でながら落ち着くようにと声をかけた。  いつも美香は辛いことがあると強がる。 “頑張り屋さん”とよく人から言われることもあり、特に苦手なことも何とかしようとしてこなすようにする。その性分、人からどんどん任されてしまうことがある。見えないところでぼろぼろになってしまった時期があった。    きっと、太一の仕事の邪魔にならないように、連絡をしなかったのだろう。  しかし、抑えようとした気持ちは太一を左目だけで見た瞬間に崩れた。  「美香、怖かったんだね。おれがもっと早くに帰ってくればこんな思いをしなくて済んだのに…ごめんね」  「…太一、太一」  美香は太一の背中に腕を回し、両手でぎゅっと服を掴んだ。涙声ではっきりとは話せはしなかったが、太一はしっかりと聞き取った。  「…太一、おかえり」  太一と美香は二人でソファに座り、ホットミルクを飲んだ。  白いマグカップと紺のマグカップ―どちらにも小鳥の絵柄が付いている。太一が美香と同棲を始めて一周年記念にプレゼントした揃いのマグカップ。お互い黙って飲んでいる。ふと、太一が美香を見ると美香の頬には血色が戻り、表情も落ち着いていた。  「…ありがとう。少し、落ち着いた」  美香は太一が見ていたのに気が付いたのか、ほっと溜息をつきながら言った。  「…これからどうする?」  美香から太一に問いかけた―太一は一瞬目を見開いたが、美香の目を見た。  「…病院に行かないと、しっかりと検査しないと」  「うん…」  「とりあえず、おれから美香の職場に連絡するよ。美香は体の心配だけしていれば大丈夫だから」  「太一…」  太一は立ち上がり、スマホで電話を掛けた。まだ朝の七時だが、美香の職場と連絡が付き、理解ある上司のおかげで美香は長期休暇をもらうことにしてくれた。次に、近くの病院を探し、受付時間の九時までは待つしかなく、太一は美香の薬手帳や保険証、もし入院になっても大丈夫なように衣服をトートバックにまとめた。美香は太一の仕事を心配したが、今日は午後からの出勤なので心配しないように、とだけ伝えた。太一は今できることだけに集中した。  その日の夜遅く、太一は帰宅すると美香の左手が動かなくなった。    病院ではこれと言った結果がもらえなかったと話す美香が夕飯に作った煮物をお皿によそい、皿を持っていた左手が震え、美香はいつの間にか皿を落とし、ガシャンと割れる音が響いた。  次の日、太一は休みを急遽取り、美香と一緒に病院に行ったが前日と同様に決定的な結果は出なかった。  夜にベッドで太一が隣にいるのに、静かに泣いていた美香の微かな声を聴いて、太一はそっと美香の右手を握った。  「…なあ、美香。旅行に行こう。」  「…え?」  突然の申し出に、驚きを隠せなかった。  「…もうすぐ夏だし、避暑地に行こうよ」  「でも、仕事は?」  「一週間くらいなら有給も使えばなんとかなるよ」  「…お金は?」  「…おれはこう見えても節約家なんだよ。大金はないけど、少しはあるよ」  太一は美香に覆いかぶさるよに抱き着き、唇を美香の頬にそっと当てた。美香は目を反らしたが、頬から熱が伝わり、目が潤んでいるのを太一は見た。太一は今度はしっかりと美香を抱きしめ、お互いの体温を感じながら朝を迎えた。  朝の景色を眺めながら、美香は電車の窓の景色を見た。  美香の体の異変からもう二週間、右目が見えなくなり、左手が動かなくなり、そして右耳が聞こえなくなった。体のあちこちの異変からなのか、当たり前の感覚が失われつつあるからなのか、美香はぼーっとしている時が増えた。  太一は、少しでもこの空気のきれいな場所で気をまぎれればと願った。  ホテルに荷物を預けて、太一と美香は散策をした。テラスのあるカフェでお昼にしようと、太一が声をかけると、美香はぼーっとしていた。太一は美香の肩に手を乗せると、はっとした顔をして太一の方を見た。太一は少し眉を上げてゆっくりと大き目な声でお昼にしようと言った。美香はこくんと頷いた。 二人で野菜がたくさん入った、甘辛く味付けされた鶏肉のサンドウィッチとコーンスープを注文した。太一は野菜のシャキシャキした触感に目を見開いた。  「おいしい」  美香を見ると、口を押えているのが見えた。  「美香、どうしたんだ?」  「…味がわかんない」  美香はそう、つぶやくように言うと、サンドウィッチを皿の上に置いた。  旅行の間に美香は、味覚と嗅覚を失い、二日目の昼には左の足首から下が動かなくなった。  それはちょうど二人で橋から夕陽を見ていた時だった。  「…なんでなんだよ」  太一は少し声を震わせながら美香に言った。  「美香はおれといるとストレスなのか、嫌いなのか?」  「…そんな」  美香は太一の苛立ちを感じたのか、目を潤ませて太一を見つめた。  「そんなことない、ただ…なんでこうなったのかわからないの…」  「…おれが結婚しようって言ってからだよな。この体の異変は」  美香は息を飲んだ。    「おれみたいなやつと結婚しても美香は幸せになれないって思ったから、嘘か本当かわからないけど、こうやって悪い方へとむかってるんじゃないかな」  「太一!」  美香はまだ動く右手で太一の右腕を掴んだ。  「違うよ! 太一はそんな風に思わないで、太一は何一つ悪くない!」 「じゃあ、なんでこんなことになるんだよ!」 太一は美香の手を振り払った。 「…わたしがいけないの…」  美香は息をつっかえながら、ゆっくりと話始めた。  「…プロポーズしてくれた時、すごくうれしかったの。でもね…うれしかった半面、その気持ちを上回るくらい押し付けられる気持ちになったの…」  はあ、と息を吐き、何度か整えるように息をしてから美香は太一に一歩近づき、頬に触れた。  「…あの時とは違う怖さ、前の仕事で気持ちを追い込んでいた時に、太一が心を軽くしてくれて…わたしは救われたの…この人を大切にしなきゃいけなんだって思ったの。でもね、その気持ちがわたしの脅迫観念になってしまっていたの…大切にできなかったら、どうしようって…だから、そう思った。その時から、わたしは右目が見えなくなって、左手が動かなくなって、右耳が聞こえなくなって…味覚、嗅覚、そして左足…わたし、このまま消えてしまえば、太一が何も苦しまずに幸せになれるって思ってしまったの」  太一は力強く美香を抱きしめた。美香は太一の体温が伝わり、汗のにおいを吸い込み、お互いの服の衣擦れの音、少し乱れた息づかい。美香は隙間から見える右目の景色を見た。  夕日が沈んでいく様子は蝋燭が消えて様子と似ていた。
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