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4. 幽霊と生活する
目を開けたら身体が浮いていた。見下ろした先にベッドがある。
察するに僕は寝ている間に空中に浮かび上がって、ベッドから出ていたというわけだ。道理で寒いと思ったのである。
置時計もふよふよと浮遊して僕の目の前に参上している。寝ぼけまなこがようやく短針と長針の位置を把握し始めた丁度そのときに、秒針が一周して朝六時になった。なるほど起床すべき時間である。置時計も目覚まし時計としての機能を果たして鳴り始める。
それはそれとして、僕が宙に浮かんでいることについてはワケがわからなかった。
「尚太。起きなさい」
僕よりも高い位置から華子がいつもの腕組み姿で見下ろしている。
「君のしわざか……」
この華子という色彩の淡い女学生は僕にとり憑いている幽霊である。物理世界に対する彼女の干渉能力がどういったものなのか僕も正確には把握していないのだが、これまでの経緯から考えて手で触れたりといった接触による干渉はできないはずである。今回の件で初めて、物を浮かせることができるとわかった。
「ポルターガイストだな……」
僕は右手で時計を引き寄せて、左手で目覚ましの騒音を止めた。
ポルタ―ガイストとは家具などが勝手に動いたり子供が宙に浮いたりといった怪奇現象のオシャレな呼び方である。ドイツ語起源の名詞にしては珍しく、英語圏でもドイツ語そのままで呼ばれているらしい。この名前が使われた一番古い例は十六世紀のマルティン・ルターの著作だとか聞いたことがあるが真偽のほどは知らない。僕も姉も欧州の心霊現象は専門外である。なおポルターガイストを訳すと「騒がしい幽霊」となる。
「ほら。ちゃんと六時でしょう」
華子は自分の律儀さを主張して威張っている。
幽霊である彼女は睡眠を取らないため夜が暇なのだそうだ。そうは言っても僕とて夜通し暇つぶしの相手をしていられない。昨夜は彼女をなだめすかして、六時には起きるから待ってくれと言っておいたのだった。ちゃんと待った、と主張する割にポルターガイスト現象は六時よりも十秒ほど早かったように思う。待ちきれなかったと見える。
「わかった、わかった。ちゃんと待ててえらい」
時計を額にぶつけられた。
「あだっ」
「早く起きなさい」
「ああ。うん。まずはおろしてくれ」
僕の身体は徐々に重さを取り戻し、ベッドに軟着陸した。
「早く」
「わかった。着替えるから」
僕が言い終わらないうちに、着替えるべき制服が飛んできて僕の頭に引っ掛かった。
「見ていないから、すぐに着替えて」
「うん。ありがとう」
僕は不自由な右手をどうにか駆使しつつ、言葉に反してのんびりと着替え始めた。
どうも華子は僕の右手霊体化計画に対するモチベーションが異様に高いみたいである。おそらく彼女には僕が知るよしもない彼女なりの都合があるのだろう。僕は彼女が倉庫に閉じ込められて亡くなったという事実しか知らないけれど、憶測を巡らせるなら、その死に方はほとんど自殺に近かったのではなかろうかと思う。当該の倉庫は僕も見たが、堅牢とはほど遠い木造建築なので殴る蹴る体当たりで充分突破できそうに思える。叫んで人を呼んでもよさそうなものだ。にもかかわらず彼女は暴れた形跡もなく綺麗な身なりのまま凍死していたそうだ。何か心に抱えている闇的なものでもあったのだろう。
華子にそのあたり直接聞こうとは思わない。僕も姉も毎日を可能な限りへらへらと生きていたいので、そういった他人の事情には立ち入らない傾向にある。深刻な雰囲気は苦手であった。
「君はお嬢なのに、あんまりお嬢口調にならないね」
それゆえに僕は関係ない話題を振った。
「お嬢口調……?」
「僕のイメージするお嬢はその場合、お嬢口調とは何ですの、と言う」
「なん、何です……なにそれ」
「何々ですわ、とか、何々ですことよ、おほほ、みたいな」
「……あらたまった席なら、言うかも」
「なるほどね。場によるか」
考えてみれば僕と華子は見た目こそ大差ないけれど、過ごしてきた年月を考えれば彼女の方がずっと歳上になるはずである。身分も高位なるお嬢である。僕の先祖は苗字から察するに百姓である。四民平等とはいえ慣習は残るものだ。僕は態度をあらためた方がよいかもしれない。
「お嬢様。敬語で接した方がよござんすか」
僕の敬語は壊滅的に下手糞である。
「……好きになさい」
華子の声音が沈んでいる。機嫌を損ねてしまったらしい。
「やめとくよ。ごめんね」
なんで怒らせたのかわからないがとりあえず謝っておく。
知っての通り僕には幽霊の肌に触れたいという欲求がある。この欲求のためにいろいろとやってきたが、まさか当の幽霊と共同作業を行うことになるとは思っていなかった。一人で黙々と願望実現を期しているときの気楽さに比して、幽霊のご機嫌をうかがいつつとなると面倒が多い。
僕は不自由な右手を駆使してワイシャツのボタンを順にとめている。
はっきり言って、僕は女の子の相手をマトモにしたことがないのだ。なお、姉は別種の何かなのでここでは考慮に入れないものとする。このように未熟な僕だが、いずれはきっと恋人を作り結婚をして家庭を持つに違いない。不自由な右手でどこまでできるものかわからないにせよ、とにかく練習はしておくべきだろう。
さもなくば姉のようになってしまう。それだけは避けたい。
旧校舎に来る生徒を華子が脅かしている間、僕はアリバイ工作のために授業に出なければならない。暗雲が頭の中にたちこめて目口鼻などから漏れ出そうなくらい僕はこのことが憂鬱であった。我が姉の熱狂的な視線も不快であったが、不特定多数のささやかな好奇心がチクチクと刺さるのも面倒である。
これが一生続くのだ。我が世は地獄か。
教室に現れた僕のことを親愛なる学友たちは遠巻きに見守った。よく話す友達はいたようないなかったような気がするが、遠い昔のことなので思い出せない。そして自分の席がわからなかった。困った。
「世古(セコ)さん」
「う」
くだんの女子剣道部員が同じクラスに一人だけいるので、僕はその子に声をかけた。
世古さんは他人のフリをしたかったらしいがそれを徹底されると今後の僕の学校生活に支障が出そうである。悪いがここは道連れになっていただく。
彼女はやや薄情ながら常識的な女学生であるから、明白に名指しで呼ばれて無視するほどの度胸はない。錆びたネジを回すようにゆっくりと振り向いてくれた。ギシギシときしむ音が聞こえてきそうであった。
「世古さん世古さん」
彼女がちゃんと振り向いてくれたあとも、僕は無慈悲に呼び続けた。案の定クラス中の視線は僕の目論見通り僕ではなく世古さんに集中している。注目を集めるのが苦手らしく、世古さんは顔面を紅潮させていく。僕も苦手である。奇遇である。
「なに……?」
「自分の席がわからないので教えてほしい」
「…………そこ」
世古さんが示したのは彼女の隣の席であった。
「ありがとう。よろしく」
「……よろしく」
ぐぬぬとでも言いたげな苦々しい表情をしている彼女に向けて僕はにこやかに挨拶をした。僕とて少しは申し訳ないと思っているがこれもか弱い僕を守るためなので勘弁してほしい。
面倒な事柄には近寄らないというのを自分なりの処世術としているらしい世古さんとの会話は僕としても気楽であった。僕が声をかけるたびに、彼女は急激に黒板への強い興味を持ってしまう呪いにかかっているらしく、一切僕の右手を見ないし、右手の件への言及もしない。この配慮は大変ありがたく合理的である。何しろ世古さんには僕と仲良くなる気などないし、僕だって世古さん個人にさしたる興味はないのである。僕と大親友になりたがる奇異な人物がもし存在したなら、やがて彼は僕の右手に言及する必要がありそうだが、少なくとも世古さんはそんな人ではない。そしておそらくこのクラスにそんな人はいない。僕への接し方に苦慮していたらしいクラスメイトたちは、世古さんが示した対策方針に従ってくれる可能性が高い。そうなればずいぶん楽である。世古さんの女神のように慈悲深い無関心には多大な感謝を捧げなければならない。
これなら何とかなりそうだ。我が世の地獄に蜘蛛の糸が垂れた。
やればできるものだ。もはや僕は恐るべき敵にも立ち向かえるヘレニズム英雄のような勇敢さを身につけた。以後いかなる困難が待ち受けていようと何ら問題はない。英雄たる僕が必ずや看破することだろう。絶対である。
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