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魔女の指輪
私が最初にライラと出会ったのは、確か6歳の秋だった。私が自宅で死にかけていた時のことだ。
乱雑な部屋の隅で、私は泣き崩れていた。
体のあちこちがジンジンと重く痛む。足が折れていて立つこともできず、それを誰かに訴えるために私は更に大きく泣き叫んだ。だが家に誰もいないのか、父も母も、見に来てくれすらしない。
骨折によるものか、熱が出てきて気分がどんどん悪くなる。ベッドまで這って行こうとしたが、全身が重く進むことすらままならない。
力なく体を横にして、どうしてこんなことになったのか、それを思い出す――父に殴られ蹴られた記憶。母に助けを求めても無視された記憶――さらに熱が上がってきた、意識が朦朧とする。
それから何時間経ったのか、あるいは日が変わっていたかもしれない。
誰も来ず、ただ痛みと熱だけが強くなり、私が若くして死を予感し、それを受け入れ始めた頃。
「あなたの未来を見たわ」
と、どこからともかく声が聞こえた。知らない女の人の声だ。
「今まさに死にそうだと思っているかもしれないけど、まだ死ねないみたいね。けどこの後どんどん悪くなっていくわよ。それなのに病院にも連れていってもらえず、なぜだか怒った父親に頭を踏みつけられて殺される――そんな悲しい未来が、あと何日もせずに訪れる」
熱で意識が朦朧としているから幻覚を見ているのか、あるいは夢なのか――6歳の子供の頭では、そんなことは考えられなかった。ただ、自分のことを見ている、話しかけてくれている。それだけしかわからないし、それだけが嬉しかった。
もはやすがる相手がその謎の声しかない私は、ただ助けて、とその声に求めた。
「まだ生きたいの?でも今助かっても、父親の暴力で死ぬ未来はきっと何も変わらないでしょうね。あなたの母親も、助けてはくれないみたいだし」
「でも、死にたくない……」
「どうして?あなたの人生、ずっと親に愛されないままで、いいことなんて何もなかったんじゃない?生き残っても、結局誰からも愛されず、またつらい目に遭うかもしれない。ならいっそ、今ここで死んだほうが幸せなんじゃないかしら」
「う、うう……うぁぁ……」
私は力無く涙を流した。それは言われる通りなのかもしれないと思ったからだ。両親に愛されていないことも、彼らの気が変わる見込みなんてないことにも幼いながらに薄々感づいてはいた。
そして子供は幼く、思い込みが強い。この時の私はきっと愛されないのは自分が悪いのだと思い込んでいた。だから他の誰も、私を愛してくれないだろうとも本気で思っていた。
「泣いたって何も変わらないわよ。それより大事なのは、選ぶこと」
「ひぐっ……えら、ぶ……?」
「そう、今決めなさい。このまま死ぬのか、それとも生きるのか。死にたいなら今すぐ楽にしてあげましょう」
ここまで言われた時に私は思った。今話しているこの相手は、絵本で見た死神なのだと。きっと髑髏の顔をしていて、巨大な鎌を持っているんだ、私が死ぬのを待っているんだと。
「でも、これから苦しい目に遭うことも覚悟して、それでも生きたいと願うなら――あなたを助け、この家から連れ去ってあげる。その代わり、この私の弟子になってもらうわ」
死神の弟子?一体何をするのか、自分も髑髏の顔になるのか等と疑問は尽きなかったが、しかし私にとっては渡りに船だった。
私は誰に何と言われてもまだ生きたかった。生きて、もっとおいしいものを食べたかった。6歳の子供には何より食欲は大事である。まだ全然食べたりない、おやつもカレーもハンバーグも人生も。
「生きたいです。弟子になります」
「いい返事ね」
すると天井から黒猫が音も無く下りてきた。声の主は、死神はこの猫だろうか?鎌も持っていないし、髑髏の顔もしていない。一見して、ただの猫のように見える。
「変化よ。本当の姿はこう」
言って、黒猫が縦に膨れ上がり人の姿に変わる。髪が長く、赤い瞳の美女。黒いローブに、大きなとんがり帽子を被っている。
この姿は、これも絵本で見たことがある。これは――
「気づいたかしら?そう、私は魔女」
「ま、じょ……?」
魔女はしゃがんで倒れ込んでいる私の額にそっ、と人差し指をあてた。するとみるみるうちに体の痛みと熱が引いていき、元気が一気に戻ってきた。足の骨折すら、一瞬で治ったようだった。
「すごい!治った!すごい!」
飛び上がって喜ぶ私に、ちちち、と指を振って魔女はウインクしてみせた。
「こんなことは朝飯前よ」
そう言って自信に満ちた笑顔を見せる魔女に、6歳の私は素直にかっこいい、と思った。
「さて、まず自己紹介からしようかしら。私は大魔女ライラ・ミラベル。あなたの名前は?」
「島田優子です」
「ユーコ、良くも悪くもない名前ね。さて」
魔女が私の手を取り、引き寄せながら言う。
「ユーコ、これからあなたを連れ去るけど、この家に未練はない?もう二度と帰ってくることはできないわよ」
「ないです」
本当に無かった。もう暴力を振るう父も、助けてくれない母にも、二度と会いたくなかったのだ。
「アハハハハッ!即答か、流石子供ね。素直で正直、いいことだわ」
大笑いしてから、魔女は空中で何かを掴んで投げるような動きをした。すると、その投げた先にごろごろと大きな人形のようなものが無造作に転がっていく。
そしてその人形は、みるみるうちに姿を変え、私と同じ――正確には、さっきまでの傷ついて倒れ込んでいた私と同じ姿になった。
「これは肉人形、ユーコの代わりになるものよ」
「生きてるの?」
「いえ、死んでるわ。というか元々生きていないのよ、人形だからね。こいつを見つけてもらって、島田優子は怪我を悪くして死んだってことにするの。後から捜されると面倒だしね」
父も母も私がいなくなったからって捜したりするとは思えないが、多分魔女さんがやってるからには必要なことなんだろうと私は納得した。
「さて、行きましょうか」
言って魔女がぱちん、と指を鳴らすと、頭上に黒い円が広がった。そしてその円から黒い何かが溢れ出し、私達を包み込む。私が怖くなって目を閉じると、魔女は私の頭を優しく撫でてくれた。
「安心して。少し遠くへ飛ぶだけだから」
まるで魔法のように、私の恐怖はすぅっと消えた。閉じていた目を開くと、黒い何かに包まれていく中で、私の肉人形――傷ついて倒れていたさっきまでの私、が見えた。
(さようなら、優子)
私は両親にでなく、この家にでなく、ただそれまでの過去の私へと、心の中で別れの挨拶をした。
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