第五章:人類滅亡へのシナリオ

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2  結局、肝心なところは聞きそびれてしまった。だが松尾は、浮田と話したことで随分と心が軽くなったことを実感していた。やはり須藤は、松尾が思っていた様な刑事だったのだ。今でこそ、その牙を隠してはいるが、かつては狂犬と謳われた凶暴な刑事だったのだ。その当時を知る浮田から直接その話が聞けて、安心したと言ったら変かもしれないが、確かに松尾は胸を撫で下ろすような感慨に浸っていた。そして須藤が、その頃のような勢いを取り戻すためには、もう一押しが必要なのかもしれないと思った。その一押しをする為に、松尾は連絡会議が終わった足でそのまま署を後にした。須藤の行きそうな所なら心当たりが有る。  紺地に白文字で書かれた生蕎麦の暖簾をくぐると、手前のテーブルで老夫婦が仲良さげに蕎麦湯を飲んでいた。店の一番奥には二人掛けの小さなテーブルを前にして俯く須藤の姿が有る。そのほかに客はいないようだ。天井近くの高い位置に据え付けられたテレビがつけっ放しになっていて、厨房から出てきた大将が腕組みをしながらそれを睨みつけている。世界の人口問題について取り上げているニュースに聞き入っていた彼は、奥に向かって「愛子んとこはまだ子供が出来ねぇのか?」と言いながら厨房に消えた。おそらく嫁に行った娘のことでも心配しているのだろう。  須藤は蕎麦ではなく瓶ビールのみのを注文したようだったが、何やら考え事に忙しいらしく、コップに注がれたビールは気が抜けたまま放ったらかしだ。仕事が退けた後、須藤が一人でよくこの店を利用していることを松尾は知っていた。  「やっぱりここだったんですね?」  ゆっくりとした動作で顔を上げた須藤は、「あぁ、君か」と言って微かに笑った。松尾は彼の向かいの席に座ると椅子の上で半身になり、壁に掛けられた品書きの列を眺めた。かけ、もり、ざるといった定番メニューの後ろには、ひたし天ぷら蕎麦とかおろし蕎麦、カレー南蛮といった、ちょっとした変わり種が並んでいる。  「私、お蕎麦頂いちゃおうかな。何が美味しいんです、この店?」  彼女は向き直るとテーブル脇のメニュー表を広げた。そちらには、写真付きでメニュー一覧が載っているのだ。  「お薦めはおろし蕎麦かな。天ざるも悪くないよ」  先ほどの件がわだかまっているわけではないだろうが、やはり元気が無いようだ。そりゃそうだろう。父娘ほども年の離れた小娘に、一方的に自分の非を指摘されたのだ。ヘラヘラ出来る方がおかしい。  「じゃぁ、主任お薦めのやつにしよっかな」松尾は厨房に向かって大声を張り上げた。  「すいませーん! 注文お願いします!」  「はーーぃ!」奥から年配の女将が顔を出す。  「おろし蕎麦一つ」  「はいはい、毎度ありがとうございます」そう言って後ろを振り返った女将は、調理台に向かっている ──おそらく彼女の亭主なのだろう── 気難しそうな大将に向かって注文を取り次いだ。「おろし一丁っ!」  それを合図とするかのように、出口近くに座っていた老夫婦がが席を立った。そしてレジで支払いを済ませた老夫婦が女将を捉まえ、三人で話し込んでいる声がこちらまで伝わってくる。どうやら常連客のようだ。厨房からは、松尾が注文したおろし蕎麦の準備を始めた大将の調理の音が、リズミカルに聞こえた。  注文を終え須藤に向き直った松尾は、直ぐに頭を下げた。  「さっきは生意気なことを言って申し訳ありませんでした」  それを見た須藤は、驚いたような仕草で松尾の肩に腕を伸ばした。  「いやいや、頭なんて下げんでくれ。君の言うことが圧倒的に正しい。ガキみたいにすねていたのは俺の方なんだから。いい歳こいてお恥ずかしい次第だよ」  頭を下げたまま、松尾はその言葉を聞いていた。  「有難うございましたーーーっ!」女将が老夫婦を送り出す声が聞こえた。  「なっ。だから頭を上げろ、松尾」  彼女の肩に置いた手に力を籠めると、やっと松尾は頭を上げた。  「私・・・ 主任にもっと生き生きと仕事に取り組んで貰えたらなって思って・・・ 余計なお世話かもしれませんが・・・」  「あぁ、判ったよ。君の忠告は骨に染みたさ。この老いさらばえた老人を、情け容赦無く打ちのめしたよ」  そう言って須藤が笑うと、やっと松尾も笑顔を返した。だが、なんだかこんな風に見詰め合うのは照れ臭い。どうしたら良いか判らぬ須藤がドギマギしているのに対し、松尾はあっけらかんとした笑顔を向ける。その妙な雰囲気の二人を引き裂くような声が響いた。  「へぃ、おろし蕎麦お待ちーーっ! スーさんはビールだけで良いのかい? 何か作ろうか?」  気難しそうに見えた大将も、こうやって面と向かえば何のことは無い、ただの気のいいおやじではないか。外見やイメージなど当てにならないもんだと痛感する。今の須藤しか知らない人間は、血で血を洗う凄惨な修羅場を潜り抜けてきた彼の過去など推し量ることは決してできないだろう。須藤は慣れた風に言った。  「んじゃぁ、俺もおろしを貰おうかな。あと、ビールも追加。コップもね」  ビールをチビチビやりながら松尾が食べ終わるのを待っている須藤に、彼女が話しかけた。彼女は急須から垂れた蕎麦湯の雫を、おしぼりでふき取りながら言った。  「筋を通して欲しいって仰ってましたよね?」  テレビを観ていた須藤は、視線を松尾に向けた。  「出所は聞かないで下さい、今はまだ・・・ 申し訳ありません」  松尾は頭を下げた。その様子を見た須藤は、彼女が尋常ではない話をしようとしていることを察知した。そして無言で頷いた。蕎麦湯を飲み干した松尾はポツリポツリと、まるで身の上話でも始めるかの如く語り出した。その手は空になった蕎麦猪口を、いつまでも弄んでいた。  「十五年ほど前です・・・ 東京から一、〇〇〇キロメートルほど南下した小笠原諸島の南端付近で、海底火山が噴火したニュースが有りましたよね? 憶えてます?」  意外な話が出てきて、須藤は面食らう。  「令和海底新山だろ? 憶えてるよ。あれがどうかしたのかい?」  「はい。令和海底新山と呼ぶのは我々日本人だけで、正式にはデ・ブール海底火山と言います」そこで言葉を切った松尾は、一拍置いてから続けた。  「私達が地下の子供達を保護しなければならない理由は、あの海の底からやって来たんです」  「なんだって? 君は一体、何の話をしてるんだ?」  松尾はその質問には答えず、蕎麦湯を飲もうと口元にまで持っていった。しかし既に空であることを思い出し、水の入ったお冷に持ち替えた。  「火山活動に伴い熱せられた温泉が吹き上げられる、いわゆる間欠泉はご存知だと思います。国内では熱海、川俣、諏訪あたりが有名ですが、あれは地上の火山に限った話ではなく、海底火山においても全く同じ現象が見られます。海底探査船で調査したところ、令和海底新山にも同様の間欠泉が確認されていて、地質学者や火山学者の間ではその吐出量が桁違いに大きいことで知られていました。勿論、海の底で吹き上げられた地下水は、そのまま太平洋の海水に溶け込んでいるわけです。  ところが、長い間地底に閉じ込められていた、その地下水には我々人類の知らない生命体が潜んでいました。複雑な構造を持つ有機生命体が発生するよりも前に、地層内の水脈に閉じ込められ、そのまま数万年を経てきたわけです。元々耐熱性を備えていたのか、長い年月をかけてそれを獲得したのかは解っていませんが、とにかくそれは地下の熱水の中で種の糸を紡ぎ続けていたのです」  松尾はコップの中の水を見詰めながら話し続けている。  「それは、ある種の植物系細菌のようなもので、それが海流に乗って太平洋に蔓延し、いつしかその触手を大西洋を含む、他の海洋にも拡大したのです。この十五年の間に、地球上の殆ど全ての海洋は、その細菌の住処となってしまいました」  一気にまくし立て始めた松尾に、須藤はたじろいだ。聞きたいことは色々有った。話が難しくて須藤には理解し切れない部分も有った。だが彼は質問を控えることにした。何故なら松尾の話が肝の部分に到達するには、まだまだ時間が掛かりそうな予感がしたからだ。須藤は話の先を促す様に、松尾のコップにビールを注ぎ、それを彼女の前に押し出した。  「元々、水中に溶け込んだたんぱく質やミネラルを細胞壁を通して摂取するだけの無害な細菌でした。そしておそらくですが、地底に閉じ込められた時点で植物としての本能、つまり光合成という手段を放棄し、生き残りを図ったものと考えられています。それが火山活動によって解放されて拡散した結果、その一部が海洋の表層にまで浮上して紫外線の影響を受け変性してしまったんです。そして光合成に近い作用で生存を果たす本来の植物系の様態に変わる・・・ いや、戻ると言うべきかもしれません。そういったものが現れたんです。  その代償として、今まで日の光の届かぬ地底で生き延びていたにもかかわらず、変性後は日光を遮断された状況では生き延びることが出来ない、ひ弱な細菌になってしまいました」  堪らず須藤が口を挟んだ。  「いい加減、焦らすのは勘弁してくれないか。その海底火山からやって来る細菌が、地下の子供達とどういう関係が有るって言うんだ?」  松尾は須藤をジッと見据えた。  「そいつらは人間に感染します」
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