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リョータとカナエは図書館の地下の隠れ家に戻っていた。こうして二人で一部屋を使うようになって、もう随分と経つような気がする。陽の当たる事の無い地下には日の出日の入りに伴う一日という概念は無く、テレビも新聞もカレンダーも、時計すらも無い生活では時間の感覚は曖昧だ。季節の移ろいに伴う寒暖の変化も、地下にはそれ程の影響をもたらさないので、子供達は四季の概念をも失いつつあった。唯一、季節を感じることが出来る情報と言えば、浅層近くを訪れた時に地上の繁華街から漏れ聞こえるクリスマスソングくらいなのだ。
最初は殺風景だった室内にも、徐々に家具らしき物も増え、落ち着いた生活が続いていた。家具と言ってもそれは、下水道に流れ込んできたガラクタの類であったが、彼らにとっては日々の生活を豊かなものとするのに有用で必要な物達だ。不要な物など何も無かった。豪華で煌びやかな装飾は必要無い。それでも彼らは満ち足りた日々を送っていた。
唯一の装飾品と言えば、カナエのポシェットに入りっぱなしになっていた、ディズニーキャラの描かれた缶だろうか。元々、その中に入っていたものがクッキーだったのかキャンディーだったのかすら本人は覚えていなかったが、それはカナエの折り紙セット入れになっていた。五センチ四方で色とりどりの折り紙の束に加え、半分ほど使い切ったセロテープが一巻き。透明のビニールを張り合わせたケースに入っていて、取っ手の部分が安っぽくて黄色い樹脂で覆われた、いかにも子供向けのハサミ。それから、もう干乾びて使い物にならないスティック糊が入っている。カナエが特に折り紙を好きだったわけではないが、今にして思えば、両親が彼女を棄てる時、たった一つだけ持たせてくれた品である。既に記憶も曖昧になりつつあったが、両親から「一つだけ好きな玩具を持って行っていい」と言われ、その言葉が本当に意味するところも判らず、カナエは何も考えずに手近にあったその缶を選択したのだ。カナエが両親と繋がっていたことを示す、唯一の形ある証拠品だ。
もし、そうと知っていたら、もっと違う玩具を持ってきたのに。こんな折り紙なんかじゃなく、もっともっとお気に入りの、大切にしていた玩具が有ったはずなのに。でも今は、そんな物を欲しいとは思わなかった。だって、この折り紙の鮮やかな色彩だけで、この薄暗い部屋がいかに明るくなることか。カナエは、あの頃は見向きもしなかったこの折り紙を、今はとても気に入っているのだった。
見せかけだけの、或いは誰かと比較する為の物が、如何ほどの真価を持っているというのだろう? 所有することだけが目的の何かを追い求めることほど、無益で空虚な行いは無いということを知っている年齢ではなかったが、二人は自分達を束縛するそういった足枷の無い自由を図らずも享受していたのだ。ぜい肉をそぎ落とし、本質だけが残った生活がもたらす精神的な豊かさを謳歌していたのだった。
今日はいつもより肌寒いようだ。ひょっとしたら地上では冬が訪れているのかもしれない。二人は擦り切れた二枚の毛布を重ね、温め合うように一つになって眠るのが常となっていた。カナエはリョータの腕の中で、小さくなっている。
「ねぇ、リョータ・・・ ジェイが言ったこと本当だと思う?」
リョータの腕の中で、彼の胸に顔を埋めたカナエのくぐもった声が、神経の昂った脳に届いた。ジェイの話を聞いて、リョータは怒りとも怖れとも言えない感情に圧し流れそうで、とても眠れそうになかった。
「判らない・・・ でも、この地下ではリーダーくらいの年齢の子がいつの間にかいなくなるんだよ。どのグループでも、それは決まって十五歳くらいなんだ。ジェイが言ってたことと、何か関係が有るのかもしれない」
リョータの胸から顔を離したカナエが、彼を見上げる様にして言う。
「これまでにも、何人もいなくなってるの?」
「うん。大人に捕まったわけでもないのに、突然いなくなる。僕が知ってるだけでも、三人くらい」
カナエは再びリョータの胸に顔を埋めた。
「何だか・・・ 怖いよ・・・」
リョータだって怖かった。人類の存続のために地下の子供達を捕獲しているなんて。まるで動物を狩るハンターのようではないか。今まで大人によって連れ去られた仲間たちが、薄暗い部屋に閉じ込められている姿を想像するだけで、彼の肌は粟立つのだった。「人類を存続させるための生贄」とジェイは言うが、具体的にはどんなことをされるのだろう? それって痛いのだろうか? かつての仲間達は、毎晩泣き叫びながらその苦痛に耐えているのだろうか?
寒いとリョータは思った。考えれば考える程、リョータの身体の奥底からブルブルとした震えが呼び覚まされそうだ。リョータはいつもより強く、カナエの暖かくて柔らかな身体を抱き締めた。それに応える様に、カナエもリョータにしがみ付いた。彼女もリョータと同様、得体の知れない感情に圧し潰されそうな気分なのだ。
すると突然、リョータの心の中に今まで感じたことの無いような感情が、ジンワリと沁み上がってきているのを知った。それは胸の辺りがキュンと苦しくなるような、不思議な感情だ。それと同時に身体の芯がカッと熱くなるような感じもする。そういった心の揺らぎに身を任せていると、何故だか寒さも感じない。この気持ちは何と言い表せばよいのだろう? 自分を包み込む戸惑いの霧の奥に有る物を、この時リョータははっきりと自覚した。これは他の何に対するものでもない。これはカナエに対する心の昂りなのだということを。
カナエが愛おしくて愛おしくて、自分がどうにかなってしまいそうだった。彼女の甘く香る小さな身体を、いつまでも抱き締めていたい。その為なら何だって出来る。リョータはそう確信した。カナエを傷付ける全てのものから、彼女を守り切ってやる。
「んん? どうしたの、リョータ? 何だかいつもと違うよ」
「カナエ・・・ 僕、カナエが大好きなんだと思う」
「ホントに? えへへ、嬉しい」
「だから、もっとギュッてしてもいい? もっともっとギューッってしてもいい?」
「うん。私もリョータにギュゥってされるの、好き」
この時リョータは、生まれて初めて誰かと一つになりたいと思った。同時に、一つになれないもどかしさも知った。そして、もし大好きな人と一つになれるとしたら、それ以上の歓びは無いのであろうと思えるのだった。そんな夢のような甘美な世界が有るなら、カナエと一緒に行ってみたい。
だが、カナエの頭を抱きかかえるようにして頬を寄せていると、ふと別な疑念が頭の片隅を過るのを感じた。忘れていればいいのに、考えなければ気にならないのに、それは意地悪くリョータの心の敏感な部分をチクチクと刺激した。それを無視することなど許さないと、己の存在を主張するかのように。それを避けて通る道など、最初から存在しないのだとでも言うかのように。
僕達が行く先々に大人が現れるのは何故だろう?
判らないことばかりだった。知らないことばかりだった。それらは、知らなくても良いことなのかもしれなかったし、知らない方が幸せなことなのかもしれなかった。僕達の両親が、どうして僕達を棄てたのかという疑問に対する答えと同じくらい、それは僕達にとって無意味で無価値なことなのかもしれなかった。取るに足らない、どうでもいいことの一つでしかないのかもしれなかった。
その疑問を頭の中で打ち消すように、リョータはこれまでに無いくらいにはち切れそうな自分で、カナエをことさらに強く抱き締めた。
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