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第一章:須藤と松尾
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十五年後・・・
須藤は新宿署の表玄関を出て、人口大理石の階段を下りていた。二・三段ほど降りた辺りで日陰から出ると、直射日光が彼の白くなり始めた頭を容赦なく照り付けた。ギラつく太陽に思わず目をしかめて空を見上げる。
「また夏が来るのか・・・」
若かった頃はこのうだるような暑さの中でも、足で稼ぐ地道な捜査を行ったものだが・・・ 須藤は眩し気な表情の中に、ほんの少しの懐かしさを混ぜ込んだ。捜査の想い出はいつも夏の記憶だ。殺人的な暑さだ。冬にだって仕事をしていたはずなのに、何故か夏の風景だけが思い出される。自分の中に、この季節に対する何か思い入れの様なものでも有るのだろうか? その理由を深く考えることもせずに、ここまで年齢を重ねていた。
彼自身はそんな過酷な捜査からは身を引いていて、もう若い者にバトンタッチが完了している。今更自分が、この炎天下で這いずり回る必要は無いのだ。年寄りは年寄りらしく、空調の効いた部屋で悠々自適に・・・ といきたいところだが、残念ながら彼は、そうやって自分を甘やかすことが出来る程の地位に昇り詰めることは出来なかった。いまだに現場を駆けずり回る平刑事だ。その捜査対象が凶悪犯ではなくなったこと以外、十五年前と何ら変わってはいない。
脱いだスーツを小脇に抱え、反対の手は額の汗をハンカチで拭う。ネクタイは無く、だらしなく胸元を緩めたYシャツに浮き出た汗染みが、不快さに拍車をかける。膝の辺りがテカテカになった安物のスラックスも、かなりの年代物だ。そう思って視線を落とすと、擦り切れたスラックスの向こうに、更にくたびれた靴が見えた。だが、そこだけは若い頃と変わってはいないと須藤は思った。あの頃だって自分の足元を固める靴は、いつだってくたびれていた様な気がする。若い頃に履き潰してきた靴の数々は、老いた後の俺の姿を予見していたのかもしれない。そんな感傷にも似た想いを無理やり胸の奥に仕舞い込み、容赦なく照り付ける日差しに目を細めていると、背後から声が掛かった。
「主任! 須藤主任! 待って下さい、主任!」
そう叫びながら新宿署の玄関を駆け降りて来たのは、この春から須藤とコンビを組む松尾だ。小柄だがその身体はピシッと引き締まっていて、身体の線を強調するかのような紺のスーツが刑事っぽくはないが、歩きやすい様に ──時には走り易い様に── パンツスタイルに底の低いパンプスを履いているあたり、それなりの経験を積んでいるのだろう。須藤に追いすがり、息を弾ませながら肩を並べて歩き出すと、薄っすらと下着が透けて見えるブラウスを通して、彼女の胸が大きく上下しているのが判った。須藤はその胸から無理やり視線を引き剥がすと、黙りこくったまま前を向いて不機嫌な様子で歩き続けた。
別に女性だからとか、若いからといった理由で差別をしているわけではないが、どうして自分の相棒がこの娘なのだろうという想いは隠せなかった。年齢に至っては実の娘と言っても差し支えない程だ。今抱えている案件の性格からして、少年犯罪の取り締まり実績を買われて生活安全課から転属して来たのなら判らないでもないが、彼女は厚労省出身 ──正確には厚労省のナントカという外郭団体らしいが── というではないか。まぁ、どこ出身でも構わないが、それにしても・・・ というのが須藤の偽らざる気持であった。
「私と組むのがそんなにお気に召しませんか?」
遠慮のない視線で問い質す松尾に、須藤はどうしてもたじろいでしまう。こんなにしっかりと相手の目を見て話をする女性は、彼が知る限り松尾以外にはいなかった。そこには若さ故の向こう見ずな勢いだけでなく、自信に満ちた・・・ いや、ちょっと違うな。強いて言えば・・・ 正義感の様なものか? あるいは責任感と言い換えても良いかもしれない。そんな芯の強さが感じられて、男社会で丁々発止の戦いを繰り広げてきた須藤にとっては、なんとも居心地の悪い相棒なのであった。
「別にそういう意味じゃないさ。ただ、相手は子供だろ? そんな規則に縛られんでも良かろうと思ってね」
「あれぇ~・・・ ベテランの主任らしくない発言ですねぇ。相手が未成年だからって、舐めてかかると痛い目に遭うことが有るのはご存知ですよね?」
「そりゃまぁ・・・ そう・・・ なんだが・・・」
「課長だって言ってたじゃないですかぁ。単独行動は控える様にって」
「あんな若造に捜査のいろはを教えて貰わんでも結構だ。私には私のやり方が有る」
「お言葉ですが主任。我々が担当している案件は、事件でも事故でもありません。従い『捜査』という言葉は不適切です」
「あぁ、判ってるよ。だから君がウチに来たんだろ?」
「その通りです! もちろん、主任が刑事として積まれてきた経験や実績は尊敬に値しますし、教えて頂きたいことが沢山有ります。いや、是非教えて下さい! お願いします!」
松尾はペコリと頭を下げた。
「でも、青少年の非行や犯罪、補導などに関しては、主任もご存じない経験を私なりに積んでいると自負しています。ですから二人の得意分野を掛け合わせて、今回の案件に取り組みたいと思っています。如何でしょうか?」
如何と言われても・・・
「私では役者不足でしょうか?」
またしても真っ直ぐな視線で射抜かれた須藤は、ドギマギと顔を逸らした。もしこの娘が自分の妻や娘だったとしたら・・・ そう想像しただけで、背筋に冷たいものが走るのを感じた。事件現場でならいざ知らず、家庭において自分のような男 ──刑事としての自分以外に、何のアイデンティティも見出せない── など、ただの木偶の坊でしかない。
「お手柔らかに頼むよ、松尾刑事」
「やっだーーっ! 刑事だなんてーーーっ!」
松尾は須藤の背中を思い切り叩いた。真面目なんだかキャピキャピしているんだか、全くもって判らない。こうやって松尾のペースになるのはいつものことで、百戦錬磨の須藤も形無しだ。
二人の後姿は、ご丁寧に歩行者と自転車の通行区分が色分けされた緑色の歩道に沿って遠ざかっていった。その歩道は立ち並ぶ無機的な雑居ビル群の合間をぬって進み、更にその向こう側にそびえる、超高層建築の森へと吸い込まれる様に伸びていた。
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