第一章:須藤と松尾

3/5
前へ
/44ページ
次へ
3  東京でストリートチルドレンが問題となり始めて、既に十年以上が経過していた。いや、一説によれば更に二十年遡った時点で、既にこの問題が顕在化しつつあったとも言われている。かつて日本に未曾有の大ダメージを与えた東日本大震災の傷も癒えぬ頃、当時の政府はオリンピック招致によって復興を遂げた日本の姿を国内外にアピールしようと必死になっていた。だが実際は、破壊し尽くされた原発の原子炉封印も、垂れ流される放射性物質の制御も、土壌汚染によって退避を余儀なくされた近隣住民の生活基盤の保証すらも出来てはいなかったのだ。震災後に残った負の側面はことごとく抑圧され、黙殺され、隠蔽され、無視された。しかし、自分の頭でものを考えるということに慣れていない日本国民は、政府や大企業の意向を汲んだマスコミが垂れ流すお祭りムードに踊らされ、自国が被った傷跡の存在を忘れてしまったことにすら気付かなかったあの頃だ。大企業や富裕層に有利な税制改悪が行われ、ごく一部の金持ちが超金持ちになるのと引き換えに、殆どの国民が貧困層へと転落し始めたあの頃、そのしわ寄せが子供達に向かっていたことに気付いていた者は少なかった。先進国の中でワースト一位という不名誉な貧困率は、あの当時の平均的サラリーマンの年収が四百万という老後の生活資金を残し様の無い異常な社会システムを作り上げ、それが最も弱い存在である子供達を直撃したのだ。そういった時代を背景に、経済大国日本、技術立国日本、美と伝統に彩られたおもてなしの国日本の暗部として、貧困に喘ぐ社会からドロップアウトした子供達が陽の当たらぬ物陰に巣くい始めたのだった。  子供達は当初、都会のビルの狭間でその惨めな生活を営んでいたが、いつしか地下に広がる下水道網に生活基盤を移動させ、彼らのみの独自な社会を築くようになっていった。この流れにより、貧困家庭の子供達は ──そしておそらくそういった家庭には、子供達を健全に育む余裕も空気も愛情も欠如していたのであろう── 自ら、あるいは強制的に家を出て地下に潜るようになり、地下社会の規模は徐々に拡大していった。彼らの親にしてみれば、自分の子供が消えてくれたおかげで生活に余裕が出来るという皮肉なご利益(・・・・)が享受可能となり、あえて彼らを探すような行動を取る者は少なかったのだ。きっと地下で元気にやっているのだろう。そう考えることで、親としての責任を放棄した自身の罪から目を背けたのだ。子供達は追い込まれていたが、同様に親達も追い込まれていたのだった。  彼らの多くは、重大な犯罪に手を染めるわけではなく、時折店先で、或いは裏路地のゴミ捨て場で食べ物を漁る程度の問題しか起こさなかった。街の所々で見かける彼らの姿を風景の一部として受け入れてしまえば、それはそれで特に問題とはならなかったのだ。見たくない物は見ないという日本人の得意技をもってすれば、騒ぎ立てるほどのことでもないし、彼らに構っている余裕など当時の社会には無かったとも言えた。だがある時を境に警察がそれを問題視し始め、彼らの保護に乗り出すようになっていった。  ストリートチルドレンは東京や横浜、大阪などの大都市圏に多数存在したが、特に東京においてはその広大な下水道網の存在により、他を圧倒的に凌駕する数の子供達が生息(・・)していた。そこには大きなものだけで五十近くのグループが存在しており、徒党を組まず単独で、或いはごく少数のグループを形成している子供達も含めれば、その数は優に数百に及ぶと言われている。須藤、松尾コンビが追っているのは、主に新宿近辺を縄張りとするグループであったが、彼らがギャング化して人々に害をなしているわけではないので、刑事たちの目的はあくまでも個々人の保護だ。実際、一つのグループを壊滅させたところで、残党が別のグループに吸収されたり、新たなグループが形成されるだけで、何の実効性も無い。子供達は勝手知ったる下水道を縦横無尽に駆け巡り、神出鬼没、雲散霧消。追手たちを嘲笑うかのように、網の目をスルリと抜けては姿を消した。刑事達は彼らが巣くうこの忌々しい地下世界を、親しみを込めて、或いは憎悪に塗れた苦々しい思いで「奈落」と呼んでいた。
/44ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加