第一章:須藤と松尾

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4  大方の予想に反し、下水道内は漆黒の闇というわけではない。所々に上へと延びる分岐が有り、階層が浅いエリアでは、そこから僅かな光が差して辺りを薄ぼんやりと浮かび上がらせているのだ。それらはマンホールや道路脇の排水口へと続く分岐で、そこから漏れ入る光はいわゆる陽の光である。当然ながら、その直ぐ上には自動車の行き交う道路が有り、地響きのような騒音が微かに伝わって来ていた。しかし、子供達がこういった浅層に常駐することは無く、彼らはこの下の地下鉄などが存在する中層を越えた、更に下の深層に居るのだった。その深層こそが本当の奈落であり、つまり今、須藤と松尾の居る地点は、まだまだ序の口というわけだ。  「深層エリアには、どうやって行くんですか?」  松尾は下水管の中をチョロチョロと流れている水を避けながら聞いた。勿論、下水道と言っても汚水だけが流れているわけではなく、雨水の処理もその重要な機能の一つだ。むしろ汚水が流れるルートは決まっており、それ以外の部分ではただの雨水が流れていると思ってよい。それらの排水が流れる管は太い所では直径九メートル近くにもなり、家一軒がスッポリと納まるサイズである。そういった基幹配管に向かって大小様々な側孔が合流を重ね、最終的な処理場へと流れて行く。  「それは正規ルートの事かい? それとも闇ルートの事かな?」  須藤のおどけた言い様に、松尾がクスリと笑った。その時、松尾が照らす懐中電灯の光の中に、三分の一ほどを水没させた白い家電が飛び込んできた。それは大きめの電子オーブンレンジだ。誰が何処に捨てたのかは判らないが、少なくともこのサイズの電化製品を押し流すほどの急流が、この配管内を流れたことが有るという証である。今の情けないチョロチョロも、時と場合によっては人間なんぞ飲み込んでしまうくらいの凶暴性を身にまとうことが有るのだろう。松尾はふと頭の中に湧いた、自分がその流れに呑み込まれるイメージを振り払った。  「じゃぁ、先ずは公式ルートについて教えて下さい」  頭上や腰高の側孔から滴る雫を避けながら松尾は言った。直径二十五センチ程の小口径管からなるこれらの側孔は、道路脇の排水口からの流れ込みが多い。しかし今は雨が降っているわけでもなく、そこから流入する水は殆ど見られなかった。だが、もし地上で局地的なゲリラ豪雨が発生したら・・・ 松尾は背中に冷たいものが走るのを感じた。  「浅層から深層へと繋がる道は、いわゆる雨水貯留の為の・・・」  須藤がそこまで口にした時、彼の持つ懐中電灯が浮かび上がらせる楕円の光の中を、何者かが横切った。バシャという水音を残し、その影は横に伸びる側孔へと消えた。まるで手品のように、円筒状の壁面に穿かれた黒くひしゃげた分岐口に、それは吸い込まれて行ったのだ。  「居ましたっ!」  松尾が叫び終える前に、須藤は駆け出していた。慌てて松尾もそれに続く。それまで、のんびりとしたテンポで揺れていた懐中電灯の灯りも、今は忙しなく上下運動を繰り返し、それらが作り出す光の環も乱れた動きで壁面で踊った。バシャバシャと水飛沫を上げながら走る二人に、ジメジメした側孔で自身の毛皮の手入れに余念のなかったネズミが逃げ惑う。  何者かが吸い込まれた側孔までたどり着いた須藤が、すかさずその中を懐中電灯で照らし出すと、二十メートルほど先を走る少年の背中が浮かび上がった。少年は一度だけ振り返り、そしてまた別の側孔へと吸い込まれて消えた。彼が振り返った一瞬に須藤と松尾は、その顔を認識した。  「主任! 今のはリョータです!」  首元が伸び切ったサイズの合わないTシャツは、元の色が何色だったのかも判別できないほどに薄汚れていた。ゆるゆるの襟元からは、痛々しいほどに痩せて浮き出た鎖骨が垣間見えている。カーキ色のアーミー調パンツの裾はボロボロで、泥水を吸い込んで黒っぽく変色していた。ベルト通しが切れて、ベルトの端部が三十センチ程だらしなく垂れている。ただそんな外観に似合わず、少しくせ毛でボサボサの髪の合間から見える両の眼は爛々と輝き、むしろ躍動する生命感に満ち溢れていた。そう、少年は生きて(・・・)いるのだ。こんな陽の当たらぬ薄暗い世界で、彼らは紛れもなく生きて(・・・)いるのだった。須藤の目には彼らが、この地下に巣くう得体の知れない生命体のようにすら思えるのであった。  「あぁ、間違いない。ここならまだ電波が届くだろう。君は本部に連絡してから追って来てくれ」  そう言い残した須藤は、少し頭を下げて屈んだ状態で側孔へと進んだ。松尾は上着のポケットから無線を取り出すと、一気にまくしたてた。  「こちらSJ2、こちらSJ2! 新宿御苑北入り口付近の浅層で((からす))と接触! 追跡します!」  『こちら少補対本部、了解です。ターゲットの進行方向を教えて下さい』  松尾はすかさず、警察配給品のコンパスを取り出した。丸い文字盤の上に、半分赤く塗られた針がユラユラと揺れているやつだ。少々古臭いツールと言えたが、GPS電波が捕捉出来ない地下では、スマホのアプリなどは役に立たない。  『えぇっと・・・ 御苑前駅を越えて東南東方向に進んでいるようです』  『了解。近辺を警邏中のYY1が応援可能です。直ぐに向かわせます。お気をつけて』  無線通信を終えた松尾は、須藤の持つ懐中電灯の明かりが微かに見えるのを頼りに、一気に駆け出した。荒くなった自分の呼吸音が暗い下水管に充満し、円筒形の壁に当たって跳ね返って来る。自分の身体を伝って来る音と、壁から反射してくる音が微妙な遅延を伴って耳に届き、出来の悪いコンサートホールに居るようだ。おそらく、直角に交わる側孔への曲がり角を三つ以上離されてしまったら、導いてくれる光は届かず、完全な別行動をとらざるを得ないであろう。松尾は足元に転がる得体の知れないガラクタを飛び越えるように加速した。  暫く進むと、須藤の持つ懐中電灯が直接目に入った。彼は灯りをあちこちに向けて、四辻の先を見通しながら、どちらに進むべきか判断しかねている様だ。おそらく、リョータがどっちに進んだか判らないのであろう。須藤は耳を澄ますような姿勢で僅かな音を拾おうと苦慮していたが、足元を洗う水音がそれを邪魔していた。  須藤に追いついた松尾が、肩で息をしながら問いかけた。  「はぁ、はぁ・・・ YY1が応援に・・・ はぁ・・・ 来てくれるようです・・・」  しかし須藤はそれには応えず、独り言のように呟いた。  「すまん。見失った」  「どうします? はぁ、はぁ・・・」  「二手に分かれるのが効率的だが・・・」  そう言って松尾の顔を見た。懐中電灯の明かりが壁に反射し、お互いの顔がボンヤリと浮かび上がっている。その薄明かりの中で、松尾が微かに笑った。  「単独行動は避けるようにと・・・」  「課長さんがそう言ってるんだろ? 判ってるよ」今度は二人とも声を出して笑った。  「じゃぁ右に行ってみるか? 何の根拠も無いがな」  「はい。確率三分の一ですね」  二人は前後に並んで、更に奥へと足を進めた。最初にターゲットを視認した地点よりも、管の直径は一メートルほど狭いだろうか。二人を圧迫するように壁面が迫っているが、視界の暗さが逆にその圧力を感じにくくさせている。唯一、二人の持つ懐中電灯の灯りだけがヌメヌメと濡れる壁を照らし出し、息が詰まる様な閉塞感を醸し出していた。その感じが嫌だったのか、珍しく須藤の方から話しかけてきた。  「YY1(四谷署1)が応援に来るって? SJ3(新宿署3)がこの辺に居たんじゃなかったのかい?」  「地下に入る前に無線が入ってたんですが、SJ3は今、((むじな))と接触しているようです」そう言って松尾は耳に入れたイアフォンを、人差し指でポンポンと叩いた。  「((むじな))ねぇ・・・」  「どんな連中かご存知ですか?」  「さぁな。その辺は君の方が詳しいだろ? ご教示願いたいね」  「リーダーはタカヒロと呼ばれる十三歳の少年で、メンバーは全部で五名ほどと見られている中規模グループです。((からす))ほど大人しくはないですが、かといって好戦的でもなく、むしろ機動性に富んで逃げ足の速い連中・・・ わぁっ!」  気が付くと、二人はだだっ広い円筒状の空間に足を踏み入れていた。地下にこんな場所が有ったのかと思われるような、大きなスペースだ。そこを中心として放射状に側孔が伸び、周辺の廃水が一旦、そこに集まるような構造になっていることが判る。松尾は、予期せぬ空間の出現に、思わず声を上げたのだった。  「ここって、まだ浅層ですよね? 浅層にこんな場所が有ったんですね?」  須藤はニヤニヤ笑いながら応えた。  「これがさっき言った『正規のルート』さ」  須藤が懐中電灯で指し示す方を見ると、そのスペースの真ん中に大きな丸い穴が開いていた。その穴の周りには、それと判るように高さ十センチほどのコンクリートブロックの土手が敷設されているが、それには幅二十センチほどの切れ込みが周上にいくつも存在している。その切れ込みを通って、ここに集められた水はもれなく下へと流れ落ちて行く構造だ。それを見た松尾は、その穴の一角だけがうっすらと明るいことに気付き、そっと近づいた。  「深いから気を付けろよ」  その声を背中で聞きながら恐る恐る下を覗き込むと、垂直に切り立った直径二メートルほどの縦坑の先が照明の灯る部屋のようになっていて、その床面が灰色のコンクリート剥き出しになっているのが判る。  「これは・・・?」  須藤は松尾を押し退けるようにして屈むと、手にしていた懐中電灯を消してポケットに仕舞い込み、その管の内面に取り付けられたコの字の梯子に取り付いた。  「降りるぞ。滑るから気を付けてな」
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