③『最終版 ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(1999)

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③『最終版 ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(1999)

 もし僕が『公立長船橋(おさふなばし)大学付属高等学校への不満を一つ述べよ』と言われたら、躊躇いなく「職員室にいる教員を呼ぶ際、学年・クラス・フルネームを中世の武士よろしく叫ばなければならないこと」と答えるだろう。  いや、何も叫ぶという行為が嫌いなのではない。  僕は自分の名前が、心底嫌いなのだ。  僕が名乗ると、決まって相手はしげしげとこちらを値踏みしてくる。「え、こいつハーフなのか?」という風に。そして僕の目、肌、髪、顔つきが、月並みな日本人であることを確認すると、嘲笑うように鼻を鳴らす。中には得意気に「『シェイクスピア』かい?」と付け加える奴さえいる。言った本人は気の利いた一言のつもりなのだろうが、そんなセリフはとうの昔に聞き飽きていた。  この名前で良かったことなど人生において一度もなく、今後も絶対にありはしない。生まれた時から、僕の人生はハードモードなのだ。  ――というわけで。  時は昼休み開始直後、場所は第二職員室唯一の引き戸の前で、僕は密やかにため息を吐いた。 『昼休み、夏休みの課題ワークを取りに来てくれ』  古典の鬼涙(きなだ)先生にそう頼まれて、四時間目終了後、考えうる最速のコースを取ってここに来たのだが、どうにも無駄だったらしい。  奇跡を願いながら、チラリと右後方に視線を向ける。  願い虚しく、そこには顔を俯かせた女子生徒が一人、変わらず佇んでいた。半袖の白ブラウスを飾る首元のリボンは臙脂(えんじ)色――三年生だ。  ……百歩譲って、名乗り上げも教員だけに聞かれるならまだいい。立場的に、野暮なチャチャを入れる人は少ないから。だが生徒――特に、面識のない先輩が聞こえる位置にいるとなると話は違う。  僕の名前が耳に入れば、彼女はある期待を持って僕の顔を覗いてくるだろう。そして、名前に見合わぬ十人並みの顔を発見するや、侮蔑の色を隠そうとはしないだろう。さらに教室に戻ってから、この顛末を友人たちに披露するだろう。  ……被害妄想だと人は言うかもしれない。だが妄想だとしても、僕を苦しめていることに変わりない。まったく、こういう心労を避けるために全力疾走したというのに……。  フッと息を吐いて――意を決して、僕は戸を叩いた。いつまでもこうして立ち尽くしているわけにはいかない。ボチボチ、他の生徒もやってくるだろう。  まあ、なるようになるさ。大体名前なんて、僕に何の責任もないことだ。臆する必要がどこにある。さあ、威風堂々と叫んでやれ!  ……なんて内心の虚勢とは裏腹に、もちろん僕は、引き戸をゆっくりと開けながら、できるだけ早口かつ濁し気味に名乗り上げるのだった。 「一年三組城島(じょうじま)ロミオです。鬼涙先生はいらっしゃいますか?」 「おー、早かったな、城島! すまんが、ちょっと待っててくれ!」  教材やら書類で作られた壁の向こう側から返ってきた鬼涙先生の野太い声に、僕は軽く頭を下げ、入口から離れた。  その際、止めておけばいいのに、見知らぬ先輩の様子をチラリと窺うと――見事に目が合ってしまった。  向けられていたのは、明白な好奇の眼差しだった。  僕はそれが嘲りに変わる前に視線を外し、距離を置いて壁に背を預けた。ジメついた暑さも手伝って、体からイヤな汗が滲み出てくる。  ……そうだよな。  理屈ではわかる。僕も『マクベス』やら『リア王』やら名乗ってる男がいたら間違いなく二度見する。それと同じことだ。  こうなると、僕にできるのは祈ることだけだった。せめてこの人が、後輩の名前をからかいの種にしない聖人でありますように。  目を瞑り、そんなことを考えていた時。 「少し、いいかな?」  流石に想定外だった。先輩は僕に近づき、そう声を掛けてきたのである。  身長は一六〇センチくらい。髪は、毛先に向かって緩やかなウェーブが掛かった、少し長めのボブカット。柔らかなカーブを描いた眉、黒目がちの瞳、チョコンと中央に乗せられた鼻に、薄い桜色の唇――幼さを感じさせる顔の各パーツは、しかし全体で見ると年上然としているから不思議だった。そんな人がはにかむ様な笑顔を浮かべ、やや上目遣いにこちらを見る姿には、僕にも庇護欲なんて高尚な感情があったのかと気づかさせるものがあった。さぞクラスでは、僕のような陰キャから人気があるだろう。  そんな可愛い先輩に声を掛けられ浮かれる本能に、理性が歯止めをかける。  思い出せ。先ほど彼女が自分に向けた瞳の色を、と。 「何ですか?」  僕は意識して険のある言い方を選んだ。どうせ名前がらみのことを訊いてくるのだろう。可愛いらしい人が良い人とは限らない。この名前のおかげで得た数少ない、そしてありがたくない教訓の一つである。  だが予想に反し、なされた質問は未知の領域からのものだった。 「『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は、『旧』と『新』、どっちが好み?」 「……え?」  ないと……何だって?  それの『旧』と『新』?  どっちが好みも何も……どちらも知らない。  というか、そんな謎の質問をされる理由がない。  誰かと勘違いをしているのか?  いやいや、僕は職員室の入口で名乗りを上げていて、この人はそれを聞いていたはずだ。そうでなければ、あんな好奇の視線を送ってきたりはしない。だとしたら、なぜ? 「わかりづらかったかな? 『旧』は68年版で、『新』は90年版……つまり、『死霊創世紀』の方が『新』なの」  小首を傾げながら付言する先輩。  なるほど、『新』はシリョウソーセーキを指すのか。  ……いや、なるほど、じゃない。何も進展していない。意味不明さが加速しただけだ。 「いえ、僕は」 「まさか99年の、『最終版』が好み何て言わないよね?」  先輩は自分の発言がよほどオカしかったのか、言い終わるやクスクスと笑い始めてしまった。  やべえ、この先輩話を聞いてくれない。  落ち着け。話を整理しよう。  なぜかはわからないが、この先輩は僕と〈ないと何とか〉の話をしたいらしい。その〈ないと何とか〉には三つのバリエーションが存在する。『旧』に『新』に『最終版』。その中で、『最終版』が好みなのはありえない。  ……そうかそうか。よくわかった。完全にお手上げだ。整理した甲斐がなかった。名前を聞き返される方がマシだったかもしれない。  僕は返答の言葉が見つからず、ただ意味もなく口をモゴモゴと動かした。無言で見つめ合う謎の時間。溜まった汗が、背中をスルリと伝っていく。 「……え、ひょっとして……そう、なのかな?」  先に口を開いたのは先輩だった。  僕の沈黙と表情から、(くだん)の『最終版』が僕のベストだと勘違いした様子だった。露骨に顔が曇っていく。 『本気なの?』  目がそう訴えていた。……ああ、もし新貝(しんかい)がこの場にいたら、「おやおや、SANチェックが必要みたいだね」としたり顔で言っただろう。この場合、ダイスを振るのは僕か、この先輩か。  いや、そんなことはどうでもいい。この状況を、僕はどうすればいいんだ。  はや、先輩の目は不安から不審へと変わり、見ようによっては『職員室の眼前で痴話ゲンカをかます一年坊と三年生』である。マズい。他の生徒の姿も見え始めている中で、この絵面はよろしくない。  そんな内心の焦りが、僕の口を後先考えない方向に滑らせた。 「えーとですね、僕は『旧』が好みで……」 「待たせたな、城島!」  耳をつんざくばかりの大音声(だいおんじょう)が廊下に響いた。  鬼涙先生だ。その登場は、感謝すべきか否かの(あわい)を突く、絶妙なタイミングだった。 「おっ、何だ、お若い二人の邪魔をしちまったかな! スマンスマン!」 「いえ、大丈夫です」  先輩はごくアッサリとセクハラギリギリな発言を(かわ)し――こちらにチラッと顔を向けた。 『またね』  唇がそう動いたように、僕には見えた。  先ほどまでの話の意味も、今の意味深な唇の意図も、追及する暇や隙は微塵もなく、先輩は元いた立ち位置に戻って俯き、もうチラリともこちらを見なかった。 「いいのか?」  鬼涙先生の言葉に、僕は無言で頷いた。いいも悪いも、ありはしなかった。  準備室前で課題を預かり教室へ戻る道すがら、僕は第二職員室前の廊下をチラリと覗いてみた。  あの先輩の姿は最早見えない。  不思議な人だった。不思議な会話だった。いや、会話というには、あまりにチグハグだった。白昼夢でも見ていたのかと思う。あれはまるで、非日常の物語でも始まるかのような、そんな――と考えて、自分の痛さに思わず苦笑した。  まったく、中二病もいい加減卒業しろ。  学校にテロリストが押し寄せてくることも、突然闇の眷属(けんぞく)が目の前に現れることも、世界中がゾンビで溢れかえることも、ありはしない。世はなべてこともないのだ。  息をフッと吐き、窓の外に目を向ける。ありふれた青空に、ありふれた白雲が漂っている。  日常に帰れ。現実を見ろ。高校生としての自覚を持て。  中身の詰まった段ボール箱を持ち直す。実にありがたいことに、鬼涙先生から渡された課題は、僕にそれを再認識させるのに十分な質量を持っていた。  欠片の期待も希望もない、ただ暑いだけの夏休みが、目前に迫っていた。 (③『最終版 ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(1999) 了)
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