前編

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 初めて君の瞳を見た時、なんて美しいのだろうと思った。  蒼、あるいは碧。  ああ、文字というものの素晴らしさを、いま僕は噛みしめた。  君の瞳は、「あお」なんて単純な響きだけでは表現できない、それはそれは美しい色だ。  かつて、青空と呼ばれていた空。灰色の空しか知らない僕たちの考えた、ドーム上に投影される偽物の空とは比べものにならない色を宿した君に、僕は強く惹きつけられた。  至極ありふれた亜麻色の長髪すら、黄金以上の価値があるように感じられた。  光を受けて輝く瞳が動き、目の前にいる僕を捉えたその瞬間、僕のこころは君に囚われた。  あの時からずっと、僕は君の(とりこ)だ。  けれど、それは決して悟られてはならないことだとも理解していた。  僕と君の関係は、主従であってしかるべきだったから。  そう望まれていた。義務づけられていた。  規則や価値観は大切で、特に階級上位は模範たれとされる立場だ。そこに属している僕は、それらに背くわけにはいかないのだと己を律していた。  君には君の立場があり、僕はそれを見守る役目を担っている。  まだ少年だった僕は、その年齢なりに、自分の立場をわきまえていたつもりだ。  そのくせ、僕は欲してやまなかった。  君の声を。  君の手を。  君の姿を。  君の存在を。  君、そのものを。  立場が許さないことを本当に実感したのは、学舎に入ったころだっただろうか。  なにしろ、それまでの僕ときたら、通信映像での教育ばかりで、同世代はおろか、生身の人間と触れ合う機会がほとんどなかったものだから、学舎は本当に衝撃だったよ。  もっとも、そんなふうに育つのは珍しいことではないのだけれどね。  僕と同じように、狭いコミュニティで育ってきたご同輩たちは、同級生という不思議な存在に驚き、恐れ、どう接すればいいのかわからないといった生活をしばらく送った。  いまにしておもえば、あれは徴兵を意識した生活だったのだろう。  人口が減り、出生率が下がり、環境破壊からくる都市部の崩壊により、人々は過疎と呼ばれていた場所へ個々に逃げ込んだのだから。  他者と触れ合う機会などなく育った僕たち世代に、社会性を植え付けさせる意味で、あれは必要な過程だったんだ。  いま僕がいるのは、僕と同じ条件によって生まれた者たちが集められた部隊だ。かつての同級生たちは、同僚、あるいは仲間となった。  肉体ではなく、頭脳に特化した部隊とはいえ、やっていることは変わらない。  戦争だ。  ああ、僕のことはいいんだ。君との思い出を語ろう。  僕が知るかぎり、君ほど魅力的は女性はいない。  遺伝子操作が可能な今、容姿なんてお金で買えるし、外科的処置を行えば、望んだ容貌に変えられるのだから、外見的な美しさは意味をもたない。  魅力とは、その心根を宿した行動に現れる一連の仕草だ。  例えば君が、塩と砂糖を入れ間違えたお菓子を作ったこと。  見た目は完璧なのに、味だけがとても不完全で。僕としては、まさか君がそんな失敗をするなんてちっとも思わなかったものだから、ひどく驚いたことを覚えている。  けれど、とても微笑ましくも感じたんだ。気にするなと言ったことは、慰めなんかじゃない。僕の本当の気持ちだよ。  お菓子作りといえば、小麦粉をまき散らしてまっしろになったこともあったね。  あの現象は、海を舞台にした古典作品に登場する「タマテバコ」のようだった。  僕も君も、粉まみれになって、キッチンで一緒に笑った。とても楽しかった。  なにも君の失敗ばかりを記憶しているわけじゃないよ。それらは僕にとって好ましいものであり、君の行動が、僕のためになされているということが、ただただ、嬉しかったんだ。ひたすらに。  もっとも君にとっては当たり前の、与えられた役割を遂行しただけだったのかもしれない。  だけど僕は、君がもたらす全てのことを好意的に受け止めていたのだということを、改めて言わせてほしい。
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