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今にも踏み抜きそうな床にそっと足を乗せると、室内を見渡した。
まるで、時が停止したような場所だった。
クロスのかかったテーブル、その中央に古ぼけた一輪挿しが置かれている。折りたたまれたテーブルナプキンは、奇跡的に形を保っているように見える。
意を決して中へ踏み入ると、ぎいという床が軋む音とともに、粒子の埃が舞う。古ぼけた建物特有の、湿気とカビ臭さが鼻についた。
陽光を受け、キラキラと輝き浮遊する砂埃はどこか非現実で、けれど同時に、教会のような静謐さと美しさがあった。
部屋数は多くはなく、そのどれもが無人だ。
当然だろう。いったい、何十年経ったと思っているのだ。こうして建物が現存していること自体、奇跡に思える。
こんなところに自分を派遣した上司に恨み言を呟いた男は、廊下の端で足を止めた。
地下へ続く階段があった。
大昔の家には、戦火に備えた退避シェルターがあったもので、おそらくこれもそれと同様のものだろう。
興味本位で覗いた男は、室内に鎮座するものに驚愕した。
そこには、二十歳ほどの女がいた。
いや、ちがう。
いくつものチューブが伸びる椅子に、ゆったりと腰かけるように座っているものが、生きた人間であるはずがない。
【LU-000型 Typeβ】
椅子の肘掛け部分に刻印された型式は、随分と古いタイプのアンドロイドのものだった。しかもタイプベータ。市場に出回る前のプロトタイプに冠するコードである。
ヒトに近く、ヒトとともに過ごすために作られたLUシリーズは、あの戦争によって開発が凍結した。施設に集められていた研究者のすべてが犠牲となり、それ以上の発展が望めなくなったせいだ。男が託された手紙の主たる男性も、そのひとり。
稼働していたものはやがて動きを止め、しかしその精巧な作りを把握している研究者はみな亡くなっているものだから、修理もままならない。
未だ、最高傑作と謳われている、伝説のアンドロイドシリーズである。
瞳を閉じたLU-000型は、年月の経過を感じさせないほどの美しさを保って、座っていた。伸びたチューブの先の機器はすでに活動を停止しており、新たなエネルギーを供給しているようには思えない。
戦いに終止符をうった爆撃時、大規模なエネルギー断絶が起こり、復旧には莫大な時間を要している。辺境にあるここが捨て置かれたとしても、なんら不思議ではない。
しかし、どうしたものか。
停止しているにもかかわらず、今にも動きだしそうな生々しさを感じさせる姿に、男はごくりと唾を呑んだ。
そのさまは、眠りについた人間そのものだ。
半地下の部屋。
天井付近に設けられた明かりとりのための小さな窓が、彼女が眠る椅子を背中から温めるように照らしている。
光を受け輝く亜麻色の髪は肩を流れ、華奢な身体つきの彼女を包んでいる。
お腹のあたりで組まれた指は、まるで祈りを捧げているようにも見え、男は立ちすくんだ。
その小窓から吹きこんだ風が頬を撫で、我に返る。
自らの任務を思い出した。
肩から下げた鞄から取り出した手紙。
宛先に冠された文字。
届けようとしていた相手の名前は、『ルゥ』
「……郵便です」
呟いて男は、その封書を彼女に捧げた。
量産型アンドロイドの人工皮膚とは明らかに異なる柔らかな皮質の両手を持ち上げ、託された手紙をそっと挟みこむと、まるで大切に、胸に抱いているように見えた。
いいや、きっと彼女はこの日をずっと待っていたのだ。
窓に嵌められた鉄格子が十字架の形をした影を落とすなか、彼女は主の無事を祈り、帰還を待ちつづけている。
今も、なお。
扉を閉めて、地下室をあとにする。
入ってきた時とは別の、裏口の戸をくぐると、そこには青々とした草花が生い茂る庭園があった。
色とりどりの花が咲き、アーチ状に作られた支柱に蔦が這い、鈴なりの花が垂れている。
名も知らぬ花や草木が、溢れんばかりの緑を誇っている。
秩序もなにもあったものではないが、死の時代と呼ばれていたころの人々にとっては、夢のような庭だったのだろう。
たしかにここは陽当たりが良い。
遮るものが、なにもない場所だ。
降り注ぐ太陽も、恵みの雨も、独り占めだろう。
男は廃墟に一礼し、踵を返した。
抜けるような、澄んだ青空の下。
一帯を吹き抜けた風は庭園を通り、花びらを乗せたまま、流れるように地下室の小窓へ向かう。
ひらり舞った花弁たちは、格子の隙間を抜けると、ふわりふわりと古ぼけた手紙の上へ降り注いだ。
いくつもの花が、彼女に捧げられる。
彼の想いとともに、彼女の胸にいま届いた。
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