Trennung

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<2>  村雨は、草壁邸を後にすると寄り道する事無く芝区田村町の自宅へ戻った。  当然、尾行への対策は完璧だ。  いつもの様に自宅近くの寺を数件うろつき、周囲の確認を行った後、一番安全なルートを選択して帰宅するのだ。  村雨の帰宅ルートのパターンは、それこそ無数に存在した。  そして、恵まれない生い立ちの村雨にとって、それ程までに家族は大切なものだった。  今日も尾行を確認しつつ帰宅すると、玄関を開けた所で君がじっと正座をして待って いた。  「ただいま・・・どうした?」  流石の村雨も、それにはやや驚いたようだ。  軍帽を取り、君に預ける。  その髪は濡らして朝より幾らかボリュームを抑えてはあるが、やはり毛先がぐりんと明後日の方を向いており、不揃いのままになっていた。  しかしそれが日常なのだろう。  君は村雨の髪について、その場で一切、全く触れなかった。  かわりに、  「ふふ・・貴方が帰宅なさるような気がしたので、待ってました」  満面の笑みで、君が村雨にそう告げた。  「・・・そうか、すまない」  其処に弓が、壁伝いによちよち歩きながらやって来た。  「とと・・おかぁ~り」  弓は倒れ込む様に村雨の腕にしがみついた。  そんな弓を、村雨は満面の笑みで優しく抱き止める。  「弓~~、相変わらずお前は可愛いなあ!」  先日頬をすりすりして嫌われてしまったので、今日はギュッと抱きしめるだけにした。  そんな夫の姿に、君は目を細めながら上衣をハンガーに掛けた。  「さ、朝食の準備を致しますから。おあがりくださいませ」  「ああ」  その後家族で朝食を共にし、束の間の団欒を味わうと、村雨はしばし自室に籠った。  僅か数分の後に部屋から出て来た村雨は、先程までの緩んだ表情とは一変し、引き締まった顔をしていた。  その後は軽く歯を磨き、髭をそり、爆発した髪を綺麗に整えて、仏壇で両親の位牌に手を合わせてから妻の君に、  「すまん、もう行く」  小さくそう告げ、ハンガーの上衣を掴むと素早く身に纏い、そのまま玄関に向かった。  弓は、居間のラジオ放送に夢中になって耳をそばだてている。  ラジオからは、その前に流されていた軍歌が終わり、女性歌手のポップな歌声がザラザラというノイズの音と共に聞こえて来ていた。  弓はその歌声に合わせて手拍子を取り、上手に歌っていた。  上手に・・・と云っても、年齢に照らし合わせてだが。  そんな娘に目を細めつつ、  「行って来る、留守を頼む」  そうぶっきらぼうに告げ、玄関で軍靴を履くその大きな背に、君が縋りつく様に抱きついた。  「康介さん・・・」  村雨は振り返る事無く、ただじっとしている。  涙が、嗚咽が上衣の背を濡らした。  咄嗟に、君を振り返りざま押し倒した。  君は・・じっと涙ぐんだまま、潤んだ瞳で村雨を見つめていた。  「ごくん」と、村雨の喉が鳴った。  何も伝える事も、告げる事も出来ないもどかしさに、只・・唇を重ねた。  そのまま、何度も激しく口づけを交わす。  君が村雨の首に回した手の力は、次第に強くなった。  唇を離すと、村雨は君をじっと見つめた。  「愛している、お前を」  その一言に、頬を赤く染めた君の瞳からまた、涙が一粒零れ落ちた。  「お帰りを・・お待ち申し上げております、ずっと」  「スマン、必ず生きて帰る」  そう小さく耳元で呟き、履きかけた靴を足で蹴り落とした。  「・・・10分だけ、お時間を・・お情けを下さいませ」  君は微かに震え、涙ながらにそう囁いた。  その君の健気さに、愛おしさに、匂い立つ色香に・・・村雨はもう一度「ごくん」と唾を飲み込んだ。  「それは、お前に対して俺が乞う台詞だ」  そう告げた言葉とは裏腹に、その時の村雨は”獣”になり果てていた。  熱く滾る身体の、その奥にある物全てを君に・・君の中にぶち撒けたい。  村雨は君を強く抱きかかえ、立ち上がると、そのまま布団の間に向かい、襖を閉めた。    「・・おや、ご客人はどうした?」  あれから2時間程遅れて、和彦が居間に漸く顔を出した。  時計の針は既に8時を指し示している。  新聞を手に取ろうとすると、素早く小百合がその手を叩き落とした。  「もう・・何時だと思ってらっしゃるんですか。お早く支度をなさいませんと、出仕に間に合いませんわよ」  すかさず、娘の鞠も母の援護に出る。  「そうですわ、お兄様達はもうとっくに御出でになりましたわよ。ああ、そうですわ。アルフレヒドからお父様にこれをと申し使っておりました」  鞠は着物の共襟の間から一通の手紙を取り出し、父に差し出した。  「何度もお父様にお礼の言葉を述べておりましたわ。もう少しお早く起きられていらっしゃったのなら、幾らかお話も出来ましたでしょうに」  鞠はため息交じりにそう告げると、台所へ戻って行った。  「そうか・・。それは残念な事をしてしまったな」  和彦は小さく笑うと、ちゃぶ台に付いた。  その絶妙なタイミングで、小百合と鞠が父の朝餉の膳を運んで来た。  しかし、お膳の内容がいつもとは随分違っていた。  「これは・・・朝から豪華だな。何だ、今日は豆腐まであるのか」  戦中にも拘らず、盛り付けられた朝食の品数とラインナップに、和彦が思わず目を見張った。  豆腐に驚く和彦に、小百合と鞠が互いの顔を見合わせて噴き出した。  「うふふ・・・。そうなの、今朝宮下君が豆腐を分けてくださったの」  「お父様、聞いて下さいまし。アルフレヒドはその豆腐が珍しかった様で、食事の前にお兄様に作り方を材料から根掘り葉掘り・・・」  「あの子の好奇心には本当に脱帽ね。一つ興味のある事を見つけて、それについて聞き始めたら、あらゆる事が吹っ飛んじゃうのね」  「でもまさか、豆腐をあそこまで掘り下げるなんて・・」  「それにしても、隆一郎はよく作り方を知っていたわね~」  「本当、驚きましたわ」  「・・そうか」  二人が余りに楽しそうに客の事を語るので、和彦もそれを聞きながら笑顔で食事を頂いた。  食事を終え、和彦が新聞を手に取ると・・中に小さな紙切れが挟まっていた。  其処には、  「今日は、出仕をお止め下さい。母上と鞠を連れて、何処か安全な所に避難なさって下さい。例え軍の者や白人が徒党を組んでやって来たとしても、その者達には絶対に付いて行かないで下さい、罠です」  そう書かれていた。  (これは・・この几帳面な字は隆一郎の字だ。あの子達に何が、一体・・・)  しかし和彦ははたと我に返り、思考での深追いを一旦止め、軽く頭を横に振ると、湯飲みの茶を一気に飲み干し(少々熱くて舌を火傷した)、警告の書かれた紙切れを小さく折り畳んで握り込み、そのまま立ち上がると自室に戻り、素早く軍服ではなくスーツに着替えた。  小百合は急に夫がスーツを着始めたので、驚いて  「あら、今日はお仕事は?まさかスーツで出仕なさるんじゃないでしょうね」  探る様に問い掛けて来た。  和彦は真顔で、  「いいや、今日は休みだ。みんなで何処かに行くとしよう。・・そうだ、泊りで湯河原なんぞも良いな。早く支度しなさい」  訝しむ二人にそう告げて外出の支度に向かわせ、居間の電話の受話器を取ったその時。  「... Es ist eine gute Sache, sich vorzubereiten. Damit habe ich Sie leicht   mitgenommen」  (・・・用意のいい事だ。これで君等を連れ出し易くなった)  そう背後から、少しだけ甲高い男の声がした。  「Wer ...」  (誰だ・・・)  そう問い掛けつつ振り返った瞬間、首筋の急所をトンと強めに叩かれた。  その瞬間、和彦は声を失い卒倒し、その場に崩れ落ちた。  「· · · Zunächst einmal eine Person」  (・・・まずは一人)  どさりと音がする前に、和彦はドイツ語を話す侵入者とは別の、二人組の”何者か”によって絶妙なタイミングで抱き止められ、家の外へ素早く連れ出された。  そして和彦が、その”何者か”によって玄関に横付けされた車に押し込まれそうになったその時。  和彦を運ぶ”何者か”を、駆け足でやって来た二人の青年が素早く撃退した。  その二人組の”何者か”が運んでいる和彦への被害を考慮し、最小限の被害になるよう、二人同時に首筋の急所に手刀の一撃がお見舞いされた。  抱えていた人間がやられてしまった為、途端、地面に転げ落ちそうになった和彦を、すかさず大柄な日本陸軍の軍服を纏った青年が抱き止め、そのまま肩に軽々と抱え上げた。  和彦は180を超える大柄、痩せ型とはいえかなりの重量の筈だが・・・。  軍服姿の青年にとっては大した負荷では無いのだろう、肩に軽々と乗せていた。  その軍服の青年が、鼻をポリポリ掻きつつ隣のスーツを綺麗に着込んだ青年に向かって呟いた。  「・・こりゃ、俺達と同じ日本人・・日本軍の連中だろうな、恐らく」  「多和田中将が本格的に動き出したと見て、間違いないだろうね。俺もアルフォンスからそう指示を受けていた。『日本軍内に同胞が居る、くれぐれもその動きを邪魔せぬ様に』とね」  「ああ、そうだろうな。この二人の動きは訓練された者の動きだった。だが、軍内で  もこんな大胆な事を至極当然の様にやってのける人物はそうは居ない。お前の言う通  りだろうな、恐らく」  二人が顔を見合わせ、頷き合ったのと同時に  「きゃあああああ!」  と家の奥から金切り声が上がった。  「行け、こいつらは俺が片付けておく」  「頼む」  二人は目で合図し合い、スーツ姿の青年が家の中へ駆けて行った。  「・・・だ、誰なのっ」  自室の鏡台で髪を梳かしていた鞠が、突然鏡に映った金髪の白人の男に問いかけた。  その白人の男は、小ざっぱりとしたスーツを纏い、品のいいシャツにネクタイ、ピカピカに磨き上げられた革靴といった出で立ちだ。  但し、無遠慮にも室内に土足のまま上がり込んでいた。  「... Ihr braucht es nicht zu wissen」  (・・・君たちは知る必要のない名だ)  男は、そう鞠に告げながら、身に付けていた革の手袋を外した。  直後、コキコキと手の関節を鳴らす不気味な音が部屋の中にこだまする。  ・・その不気味な音が、彼女の身にこの後起こるであろう事を暗に告げていた。  咄嗟に鞠が、震える手で鏡台の上にあった簪を握り込み、構える。  「Es ist besser, keine Waffen zu haben, sonst müsstest du dich töten」  (武器は持たない方が良い、でないと君を殺さなければならなくなる)  白人の男は、薄ら笑いを浮かべつつ鞠の細首に手を掛けようと腕を伸ばした。  しかし、それは未遂に終わる。  「Es ist nicht notwendig」  (その必要は無い)  その手を、先程誘拐犯を撃退したうちの一人が素早く払い除けた。  鞠は助けてくれた青年に、咄嗟に顔を向けようとした。  しかし、鏡台に写ったその青年の顔に驚き、思わず立ち上がった。  「・・・正隆お兄様!」  鞠の、驚きと怒りの入り混じった声と視線を正隆は冷静に受け止め、その上で  「すまない、話は後で。お前は母上を連れて逃げてくれ、頼む!」  そう強めの語気で妹に告げた。  「でも、お兄様は・・・」  鞠が急な兄からの頼み事を渋る。  煮え切らない態度の鞠に、正隆が咄嗟に声を荒げた。  「この男は、俺では恐らく食い止めきれない。急ぐんだ!」  「・・は、はいっ!」  正隆の強い言葉に背中を押され、鞠は弾かれたように部屋を飛び出した。  ユリウスはそのやり取りを冷静に見つめながら、正隆をじっと睨みつけていた。  「何故邪魔をする?」  「これ以上アンタに、俺の家族と俺の大切なものを蹂躙されたくない」  「蹂躙?・・ハッ!楽しく君と君の家族を蹂躙しまくったのも、散々君を嬲り、弄んだのも全てはルドルフの仕組んだ事だろう?私じゃない」  ユリウスは諸手を挙げ、”お手上げ”のポーズをして正隆をからかい、更に苛立たせようとする。  「貴様はルドルフにに手を貸したんだ、同罪だろう!」  此処で怒れば相手の思うつぼ、必死に苛立ちを抑えようとするのだが・・声色に怒りがどうしても滲み出てしまう。  そんな正隆に、ユリウスはしてやったりと云った表情でクスリと微笑んだ。  「君とは見解の相違がある様だ。一度じっくりと話し合う必要があるな」  そう悠然と語りながら、鞠が残していった鏡台の上の銀の簪をそっと手に取った。  「銀の簪か。モチーフも細工もとてもいい。なかなかいい代物だ。しかし・・あの年齢の婦女子が身に付けるにしては、いささか上等すぎる」  「・・・・ッ」  それを視界の端で確認した正隆が、いつユリウスの攻撃が来てもいい様にじっと、身体をやや低くして身構えた。  が・・・僅かにユリウスの方が速かった。  ユリウスの手が・・・蜃気楼のようにフッと一瞬だけぼやけた。  次の瞬間、所在が判明したユリウスの手は正隆の肩にあった。  ・・正確には、手にした簪で、その僅かな瞬間に正隆の肩を深々抉っていたのだ。  簪は飾りが見えぬ程根元まで深々刺さっており、その数秒の後、血がぽたぽたとユリウスの手を伝って滴り落ちた。  「ぐう・・ッ」  「おや、良く躱したね。・・心臓、一撃でいけたと思ったんだが」  ユリウスは薄ら笑いを浮かべつつ、瞬きする程の速さで簪を引き抜いた。  「うあ・・・・」  正隆は素早く後ずさって、必死に肩を押さえた。  だが声は最小限、うめき声も碌に出しはしなかった。  すると、  「つまらないな。”殺人”は悲鳴が一番のご馳走だと云うのに。せめて可愛らしく、悲鳴ぐらいは上げてくれないと、私の嬲り甲斐が無いじゃないか」  さも残念そうな表情で、ユリウスは簪に付いた血を舌で舐め取った。  「・・ああ、君からはやはりアルフォンスの味がするよ。あの子に、幼い頃から良い様に散々身体を弄ばれてたから、何時の間にか移っちゃったんだねぇ・・」  その後もニヤニヤと、見下すように笑いながら血塗れの簪を掌の中で弄んでいる。  「・・・煩い、黙れ」  その間も正隆の肩の傷からは、血が指の間を這うように溢れ出て来る。  「しっかし・・大きな血管や腱、致命傷になりそうな所を避けるなんて・・・君は本当にいけない子だなぁ。これだから、なまじ中途半端に医学の知識がある奴は面倒なんだ」  そう呟きながら、何のモーションも無く今度は太腿を深々と刺し、何度もぐりぐりと 執拗に傷を抉った。  「あああ・・・・っ!」  大きな血管を傷付けたのだろうか、刺された場所からは血飛沫が激しく上がった。  ユリウスは遠慮なく傷口をぐりぐりと拡げて行く。  「フフッ・・・痛いかい?でもこれ、君へのお仕置きだものね。だから、痛くなくちゃ《お仕置き》にならないだろう?」  「・・う、ああ・・・・ッ」  流石に、抉られる余りの痛みに声を上げてしまう。  今回は流石に早すぎて見切る事が出来ず、もろに喰らってしまった。  ピンポイントに神経と動脈の交差する場所をを狙い澄ました、そのえげつない攻撃に正隆の顔が歪んだ。  出血は情け容赦なく、傷口からどくどくと滝のように流れて正隆の足元に血だまりを形成してゆく。  どうにかしようと必死に背後に下がり、ユリウスを躱そうとしたのだが、その時部屋の入口の障子にぶつかり、障子が勢い良く外側に向かって外れ、倒れた。  その後太腿を押さえつつ、必死に柱にしがみつくのだが・・。  「おや、獲物を逃がす筈無いだろう、この私が」  素早くにじり寄り、簪を更に深々と突き刺しつつ執拗に抉る。  血は更に激しく流れ落ちる。  「あ・・あああ・・・・うあああ!」  余りの痛みと苦痛に、正隆は苦悶の表情を浮かべながら膝をついた。  その、苦悶の表情を浮かべて震える正隆の耳に、ユリウスはそっと囁いた。  「・・君は殺さない。これ以上、ルドルフのお気に入りを殺してしまったら、ルドルフに恨まれるからね・・・フフフ。さあ、、君も一緒にあの船に戻るんだ。そうすれば、私がちゃんとこの傷も治してやろう」  「嫌だ!・・殺せ!お前らに・・ああっ!・・・これからも、この身体を・・人生を弄ばれる位なら・・・・・殺せ、今すぐ!」  正隆はユリウスを睨みつけながら、語気を荒げた。  その顔は血の気が引き、やや青白い。  「そうはさせない」  背後で声がしたのと同時に、ユリウスが急に素早く飛びのいた。  「何だ、貴様。・・無神経な輩め」  「お前みたいな不躾な輩にだけは言われたくはない」  「フン・・・」  ユリウスはゆっくりと身を起し、身なりを整えると先程の声の主、狭間の背に隠れて顛末をじっと見つめていた鞠を狙い、簪を素早く投げた。  「君のだ、返そう」  その簪は、当然の様に鞠の喉元の急所に向け、角度もちゃんと調整して投げられていた。  刺されば確実に、鞠の喉を掻き切り死に至るだろう。  「えっ・・」  常人では投げた事すら解らない程のスピードで投げられた、その簪を狭間はすかさず握り込む様に受け止めた。  「おいおい・・・これはこんな事に使うもんじゃねえんだよ。無粋な輩だな」  狭間はぶっきらぼうに、手の中に握り込んだ簪を軍服の尻の辺りで拭い、鞠に返した。  「そらよ。ちゃんと後で洗っとくんだぜ、ただでさえ銀は汚れやすいからな」  「・・知ってますわよ、そんな事」  鞠はそんな事実を知ってか知らずか、顔を赤らめつつ、狭間の手から簪を奪い取った。  「・・・無粋で不躾なのはさて、どちらかな?」  ユリウスは狭間をきつく睨みつけた。  狭間はその視線をやんわりと受け止めつつ、溜息交じりにうんざり顔で呟く。  「やれやれ・・・こんな事だろうと、俺達が隆一郎から指示されて来てみりゃ・・」  「・・・大当たり、だったようだね・・」  正隆が太腿と肩を押さえつつどうにか立ち上がり、狭間に軽く笑いかけた。  「随分可愛がって貰った様だが・・怪我は大丈夫か、正隆?」  「生憎、柔じゃないんでね」  狭間の心配を、正隆は必死に笑顔を作る事で払拭しようとした。  だが、太ももからの出血はかなり酷く、立っているのも精一杯の状態の筈だ。  其処に、小百合と和彦が飛び込んで来た。  「正隆!怪我してるわ、大丈夫なの?」  「正隆・・・良かった、生きてたんだな・・」  出て来ぬようにと、そして玄関に停められた車に乗って待っているようにと、何度も何度も釘を刺しておいたのだが・・。  その釘を取っ払い、正隆の両親は息子の身を案じてやって来てしまった。  「だ、駄目ですって!玄関の車に乗って待ってて下さいと・・・」  狭間が慌てて、小百合と和彦に指示を出す。  その瞬間、狭間に隙が生じてしまった。  狭間が一瞬だけ、只一瞬だけ和彦と小百合の方に視線が向かった。  それは物の二秒ほど。  その僅かな隙を、ユリウスは決して逃さない。  咄嗟に人差し指、中指、薬指を三本ピタリとくっ付け、それを素早く狭間の腹に突き立てようと、風を切る速さで手を繰り出した。  流石の狭間も、その僅かな一瞬の隙をついた攻撃は躱せなかった。  重ねて、それ程までにユリウスの繰り出す攻撃は素早かった。  その一撃は見事に命中し、腹の奥に深々とユリウスの腕が収まっていた。  だが、刺された相手は狭間では無かった。  「・・・もう・・誰も、殺させない・・・・」  狭間が躱せなかった、その攻撃を・・正隆はその身をもって受け止めた。  正隆の腹から、血がどくどくと溢れて腹を伝ってゆく。  突然、その身から、フッと力が抜け落ちた。  「正隆!」  狭間が背後に倒れ込んで来た正隆を、咄嗟に受け止めた。  だが、先程からの酷い出血のせいで、身体は痙攣を繰り返し、意識は無い。  「うぐっ・・・がはっ!」  狭間の腕の中で、正隆は急に激しく咳込み、血を大量に吐いた。  「きゃあああ!お兄様!!」  「正隆、しっかりなさい!死んじゃ駄目!」  しかし、そのまま・・狭間の腕の中で、正隆の身体は急速に熱を失い始めた。  その後の呼吸は切れ切れで・・か細い。  「・・・まずい」  ユリウスは素早く手を引き抜いた。  「チッ・・・君は殺せないのだと、私が先程告げたばかりだろう!」  ユリウスは大きな溜息を吐き、正隆の許にしゃがみ込むと爪で自身の手首を引っ掻き、やや大きめの傷を作った。  怪我人を前にして、急に不可解な行動を起こすユリウスに思わず尋ねる。  「・・・アンタ、何を・・」  「まあ、見ているがいい」  ユリウスはその言葉を遮り、そのまま自身の手首の傷口から滴り落ちる血を、正隆の腹の傷に振り掛けた。  不思議な事に・・ユリウスの血が傷口に掛かった瞬間から、正隆の腹の傷から流れ落ちていた血がピタリと止まった。  「・・・よし、これでどうにか間に合うだろう」  そう呟いたユリウスの手首の傷は、既にどこにあったのか解らぬ程綺麗に消え去っていた。  ユリウスは立ち上がり、狭間、小百合、和彦、鞠の四人に向けて告げた。  「・・これは応急処置でしかない。彼を傷付けた私が云うのもなんだが・・ちゃんとこの子を完治させたければ、私がこのままこの子を預かってゆく事となる」  狭間が静かに問いかける。  「治るのか」  「この子の身体には、オイレンベルグの血が少なからず混ざっている。今すぐにルドルフの船に連れて行けば何とかなる。あそこには医療設備が完備されている。そして私は医師だ。あそこに連れて行くのなら、必ず元の状態に戻して見せよう」  「頼めるのか、アンタに」  「・・そこの三人を共に連れ行くのが私の役目だ。三人をこのまま引き渡すと云うのなら、彼をこの私が引き受ける。アーダルベルトの研究部門を一手に任されている、この私がな」  「行きます」  食い気味に鞠が。  「愛する息子の為、何でもしよう」  と和彦が。  「私の大切な息子の為ですもの。何でもします、連れて行って下さいませ」  小百合はにこやかにそう答えた。  ユリウスは余りに潔い三人を、鼻でフフンと笑い飛ばした。  「私が君達を預かるのは、ルドルフに差し出す所迄だ。その後、君等は殺されるやも知れんのだが・・それでも?」  「二言は無いわ」と、鞠。  「同じく」と、和彦。  「そう云う事よ」と小百合が。  「クッ・・・」  狭間は拳を握り締めた。  「だ、そうだ。三人を車に乗せてくれ、一刻を争う」  「・・・・わかった」  ユリウスは正隆を軽々と抱き上げると、そのまますたすたと玄関に向かって歩いて行き、自身の乗って来た車の後部座席に正隆を横たえると、車を猛スピードで発進させて行ってしまった。  狭間は仕方無く、先程捕縛した二人の軍人を再び目覚めさせ、事情を話して鞠たちを彼等の車に乗せた。  鞠たちの乗った車は、そのまま横浜に向けて走り去って行った。  狭間は頭をぼりぼり掻きむしると、苦虫を噛み潰したかのような表情で  「あーっ、クソ!しくじった・・・ジジイが生きてたら今頃俺、絶対イビリ殺されてるだろ・・・。仕方ねえ、一旦隆一郎と合流だわ・・」  そう小さな声で呟き、草壁邸に戻って行った。
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