恋の幽霊騒ぎ

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 まただ。  またあの子が、おれを見ている。  その視線に気がついておれは顔を上げた。やっぱりだ。同じクラスの叶谷(かのうや)亜美子(あみこ)がおれのことを見つめていた。  叶谷とおれは同じクラスというだけで会話すらほとんどしたことがない。それなのに彼女はこのひと月ほど、妙におれのことを見てくる。授業中でも休み時間でも廊下を歩いているときでも、隙あらばおれを盗み見ている。これは決して勘違いではない。おかげで最近、叶谷としょっちゅう目が合う。目が合うと彼女は恥ずかしそうに視線を逸らす。それだけで何も言わないし、何かしてきたりもしない。本当にこっそりと、おれを見ているという感じだ。最初は「なんなんだよ」と思った。おれの顔に何か付いているのか? でも同じようなことが続くうちに「もしかして」と思うようになった。  もしかして叶谷亜美子は、おれのことが好きなのでは? 「と思うんだけど、どう思うよ?」  学校からの帰り道、おれはそのことについて小山内(おさない)七海(ななみ)に相談してみた。叶谷がおれを見るのは、おれのことが好きだからなのでは、と。  そしたら彼女はこう答えた。 「は? バカじゃないの?」  七海は同じ高校に通うおれの幼馴染みで、言ってしまえば兄妹のような関係だ。登下校も一緒にしているから、そこそこ仲がいいと言える。おかげで七海にはこうして恋愛相談もできるわけだが、七海のほうもおれが傷つくことを平気で言ってくる。それにしたってバカとはひどい。 「なんでだよ。こんなに目が合うんだぜ? 気がないのにわざわざ見てくるか?」 「どうせヒロシの勘違いでしょ」  念のために言っておくとヒロシとはおれのことである。若森(わかもり)(ひろし)。それがおれの名前だ。 「勘違いじゃねえよ。絶対に向こうから見てるから」おれは事実を告げて反論する。 「じゃあ、あんたの観察日記でもつけているのね」 「なんでそうなる」 「そういえばこの前『若森宏の生態』っていう観察日記ふうのブログを見つけたわ。きっとあれの管理者が叶谷さんだったのね。それで毎日ヒロシのことを見ているのよ」 「おれの学生生活がアップロードされている!?」 「そのホームページには広告がたくさんあったわ。この前見たときは月間100万PVを達成したって書いてあったから、そうとう稼いでいるわね、彼女」 「アフィリエイターだったのか、叶谷さん! しかも有能!」 「わたしも叶谷さんに弟子入りして、ヒロシの過去を暴露する記事を書かせてもらおうかしら」 「それはやめてください……。って、いい加減にしろ!」  さすがに突っ込んだ。 「いいか、叶谷はな、誰にでもやさしくてちょっと恥ずかしがり屋なかわいい女の子なんだぞ。そんな叶谷が、おれの観察日記で稼ごうとするわけないだろ!」 「そうよね。ヒロシの生態なんかじゃ、一銭にもならないものね」 「その通りだと思うが、そういう意味で言ったんじゃねえから」 「じゃあ、なんでヒロシのことなんか見ているのかしら」 「だから、おれのことが好きなんじゃねえかって……」 「ヒロシのことが隙だらけ? なるほど、それで叶谷さんはヒロシを監視して守ってくれているというわけね。たしかにやさしい子だわ」 「いったい何から守っているんだ」 「妖怪とか幽霊とか」 「いきなり怪異譚に!?」 「ヒロシは自覚がないみたいだけど、あなたとっても憑かれやすい体質なのよ?」 「おれにそんなキャラ設定があったのか!」 「ほら、中学二年生のとき『静まれ、おれの右腕よ!』とか言ってたじゃない。あれは妖怪に取り憑かれていたのよ」 「違う、あれは中二病をわずらっていただけだっていうか思い出させないでください!」 「この話し、ブログに書いたら少しはアフィリエイトで稼げると思わない?」 「そっちに話しを戻すな、叶谷のほうに戻せ!」  無駄話で文字数を稼ごうとするな。  物語が進まないだろうが。 「なんだっけ。叶谷さんがヒロシのことをなめるように見てくるって話しだっけ?」脱線から話しを戻すために七海が言った。 「表現が若干変だけどそんなとこだ」 「で、ヒロシは叶谷さんが自分のことを好きなのではと勘違いしてしまったと」 「たしかに勘違いの可能性はあるけど、なぜ決めつける」 「勘違いに決まっているじゃない。きっと何か別の、のっぴきならない理由があるのよ。だいたい視線だけでそれが好意だなんてわかるの?」 「目は口ほどに物を言うってやつだよ。さすがにそれくらいわかるぜ」 「信じられないわ」 「なあ、さっきからどうしてそこまで否定するんだよ」 「ヒロシを好きになる人なんているわけがないっていうのが、わたしの考える宇宙の法則だからよ」 「ずいぶん壮大なけなし方だな」 「この説を覆すにはもっと有力な反証が必要だわ」  有力な反証って……。妙に難しいことを言ってきやがる。でも要は、おれのことを好きだと言ってくれる人がいれば、七海の考える宇宙の法則とやらは崩れるわけだな。 「じゃあわかったよ。確実な証拠をあげてやるぜ」とおれは言った。 「あら、どうする気?」 「おれのほうから叶谷に告白する」 「は?」 「それで向こうがオッケーしたら、叶谷はおれが好きだってことだろ?」 「そうかもしれないけれど……」 「言っておくけど、七海に証明したいというだけで告白するわけじゃないぜ? 叶谷に見られるうちにおれも叶谷のことを意識するようになったっつーか、ぶっちゃけ好きになっちまったんだよ。だからこれはきっといい機会なんだ。おれは明日、叶谷に告白する!」  この話しの流れだけを聞くと軽い気持ちに思われるかもしれないが、おれは本気だった。おれは叶谷のことが好きだ。だからこそ叶谷の視線に気がついたし、叶谷と目を合わせたりもした。そうしておれはこのひと月のあいだ、密かに恋心を育んできた。思えば今日七海に恋愛相談をしたのも、叶谷の気持ちを探ってみたかったからなのかもしれない。その相談自体はご覧の通り散々な有様だが、結果的におれは決心がついた。おれは明日、告白する。叶谷とはまだ会話すらほとんどしたことないが、告白から始まる恋があってもいいはずだ。 「それはやめといたほうがいいんじゃないかしら……」  と七海が忠告するが、おれは聞かない。 「いいや、するね! 見てろよ。もしかしたら明日からは、叶谷と帰るようになっているかもしれないからな。覚悟しとけ!」 「あっそう……」  自分の考えを否定されるのを恐れているのか、それともおれごときに恋人ができるのが嫌だとでも思っているのか、七海は不満そうな顔をしていた。これでおれが叶谷と付き合うことになったら、七海のやつはどんな顔をするか。それもある意味、楽しみだった。  そして次の日、学校でおれは叶谷に声をかけた。緊張した。だけど「男なら自分から行け」と自分を勇気づけて、言った。 「あのさ、ちょっといいかな。ふたりだけで話しがしたいんだけど」  すると叶谷は恥ずかしそうにうなずいてから、 「じつはわたしも、ずっと言おうと思っていたことがあるの」と言った。  叶谷がおれに言おうと思っていたこと? それってまさか、やっぱり、叶谷もおれのことが……!?  おれたちは人気のない場所まで移動した。 「あの、わたしから先に話してもいいかな?」と叶谷が言った。 「ああ、うん。どうぞ」  おれは緊張のせいか思わず叶谷に先手を譲ってしまった。「男なら自分から行け」だなんて自分を勇気づけたくせになんてことだ。でもまあいい。叶谷がなんと言おうとおれも言ってやる。「叶谷のことが好きだ」って。  心臓がバクバクと鳴っていた。叶谷も同じなのか、周囲に張りつめた空気が漂った。 「あのね、若森くん。変に聞こえるかもしれないけれど、お願いだから真面目に聞いて欲しい」  叶谷が恥ずかしそうにたどたどしく言った。その様子すらかわいい。  おれは「おう」と言って先を促してやる。すると叶谷は思い切って言った。 「わたし、一目惚れしたの! 若森くんに憑いている幽霊さんに!」 「おれも叶谷のことが好きだ!」そう言おうと準備していたおれは、代わりに「おう?」という間抜けな声を発した。改めて訊ねる。 「いまなんて?」  叶谷はもじもじしながら言った。 「わたし、その、霊感があって幽霊が見えるの。それで若森くんに憑いている幽霊がね、とってもかっこよくて、一目惚れしちゃって……。あっ、実際に見たほうが早いし信じられるよね。わたしの手を握ってくれる?」  叶谷が差し出した手をおれは恐る恐る握った。叶谷の手は小さくて、すべすべしていて、少しひんやりしていた。こんな状況でなければおれは好きな女の子と手をつなげたことに興奮していただろう。だが、そんな場合ではなかった。  叶谷と手をつないだ瞬間、知らない男がおれの視界に現れた。年齢はおれたちと同じくらいだろうか。でも表情は澄んでいて大人びて見える。そしてこれが最大の特徴なのだが、その男は空中に浮いていた。まるで、幽霊のように。 「見えたみたいだね」おれの様子を見て叶谷が言った。「あのね、わたしと触れた人はわたしと同じように幽霊が見えるようになるの。なぜなのかはわからないけれど」  マジで幽霊なのかよ!  おれは何を言っていいのかわからず口をパクパクさせながら、幽霊と叶谷を交互に見た。えっ、なに、本当に怪異譚なの? これ、どういう状況? 「やっぱり、あなたはぼくのことが見えていたのですね」と幽霊が叶谷に言った。  幽霊がしゃべった。  おれの耳にもたしかに届いた。  幽霊はさらに、おれに向かって言った。 「初めまして。ぼくの名前は湯原(ゆはら)翔太(しょうた)。彼女の言った通り幽霊です。誠に勝手なのですが、若森くんに憑かせてもらっています。そうじゃないと、消滅してしまうようなのでね」  おれはツバを飲んで気を落ち着かせてから、やっと言葉を発した。 「おまえ、本当に、おれに憑いているのか?」 「はい」 「いままでずっと?」 「憑いたのはひと月ほど前です」  叶谷がおれを見るようになった次期と一緒だった。  これまでのことを整理すると、つまり、叶谷が見つめていたのはおれではなく、おれの近くを浮遊していた湯原という幽霊……? 「叶谷は、おれに憑いているこの幽霊が、好きって言った?」おれは確認のために訊ねた。 「そうなの」と叶谷は頬を赤く染めながら答えた。「若森くんに憑いた幽霊さんを初めて見たときは本当に驚いた。すごくかっこよくて、物憂げで、儚げで……。わたしは見た瞬間に恋に落ちた。小さい頃からいろんな幽霊を見てきたけれど、恋をするなんて初めてだった。  だけど幽霊さんは若森くんに憑いている。だから話しかけることすらできなかった。幽霊さんに話しかけるわたしなんて、若森くんからしたらひとり言を言う変な女にしか見えないはずだもの。だから遠くから見ていることしかできなかった。最初はそれだけでいいと思っていた。生者と幽霊の恋なんて聞いたことがないし、これはきっと叶わぬ恋だから、憧れのような気持ちで見つめているだけでいいと思った。  だけどね、この気持ちは抑えられなかったの。わたしはもっと幽霊さんに近づきたい。話したいし仲良くなりたい。わたしのことを知ってもらいたい。好きだってちゃんと伝えたい。だからわたしは決心した。若森くんに本当のことを言って、幽霊さんとお話をさせてもらおうって。この気持ちがちゃんと言えるように。だから、少し幽霊さんとお話をさせてもらっていい?」 「あっ、はい。どうぞ」  ここでダメと言う権利など、おれにはない。なんてかっこいいことはもちろん考えておらず、おれの頭はただ空っぽで、言われたままにうなずいただけだった。 「ありがとう」  おれにそう言うと叶谷は改めて、幽霊の湯原に向き合って言った。 「幽霊さん、わたしはあなたのことが好きです。この気持ちに応えて欲しいとは言いません。だけど、よかったらお友達になってください!」  その告白に湯原は困ったような表情になった。 「叶谷さん、でしたよね? 友達になるのは構いません。しかし、ひとつはっきり言っておかなければならないことがあります。ぼくには好きな人がいます。それはあなたではない、生きている人間です。それを知っても友達になりたいと思いますか?」 「わたしは幽霊さんのことを見てきたから、それくらいのことはもう知っています。片思いだっていうこともね。だからわたしはあきらめません。幽霊さんが他の人間を勝手に好きでいるように、わたしも幽霊さんのことを勝手に好きでいます。だから、いまは友達になってください」 「わかりました」叶谷の予想外の気迫に押されたのか幽霊はうなずいた。「でももうひとつ条件がありますよ。若森くん」  目の前で繰り広げられる光景に頭が麻痺しかけていたおれは、急に名前を呼ばれて驚きつつも「はい?」と答えた。なんですか、本当に。 「ぼくと叶谷さんが友達になるためには、若森くんの協力が不可欠です。ぼくは若森くんに憑いているのですからね。だから若森くんの承諾なしに話しを進めるわけにはいかないでしょう。どうですか、若森くん。叶谷さんに協力する気はありますか?」  おれは「あっ」と声をこぼすのと同時に顔が熱くなるのを感じた。おれに憑いている湯原は、おれのそばをずっと浮遊していたのだ。だとすると、おれが叶谷が好きなことはとうぜん知っているはずだ。つまり湯原のこの質問は「叶谷の片思いに協力することになるがいいのか?」という意味が含まれている。  冗談じゃないぞ、とおれは思った。ふたりを近づけさせてなるものか、という意味じゃない。幽霊なんかに同情されてたまるか、という意味だ。 「別にいいさ」とおれは答えた。「叶谷さんが湯原に会えるようにできる限り協力するよ。ただし、おれだけ邪魔者扱いはごめんだからな。湯原のオマケじゃなくてちゃんと友達としてカウントしてくれるのなら、それなりに協力しよう」  湯原に嫉妬する気持ちもあったし、叶谷の助けになりたいという気持ちもあったし、これで叶谷と仲良くなるチャンスがおれにもできるという算段もあった。そんな複雑な感情を知らずに、叶谷はおれに感謝する。 「ありがとう、若森くん。思い切って本当のことを話してよかった!」  こうしておれたちは友達になった。  たぶん、友達だ。  学校が終わって放課後。  おれは野暮用があるという七海のことを自分の教室で待っていた。教室にはおれ以外に誰もいない。静かで、遠くから吹奏楽部の演奏が聞こえた。 「っていうかよー、なんでまだ見えるわけ?」おれは空中に向けて言った。  その姿は他の人からしたらひとり言に見えるだろう。しかしもちろんそうじゃない。おれは空中に浮かぶ湯原に向けて言っていた。 「叶谷さんの霊感が思ったよりも強かったみたいですね」と湯原は説明した。「それで手を離したあとでもぼくのことが見え続けているみたいです。たぶんそのうちに見えなくなるとは思いますが」 「まったく、どうしてこうなったのか……」 「いいじゃないですか。スタンド能力みたいでワクワクしませんか? 何かポーズでも決めてみます?」 「しねえよ!」  湯原は儚げなイケメンという感じだが、冗談の類いはふつうに言ってくるようだった。今日一日で衝撃の事実を知りまくり精神的に疲れたおれには、もうその冗談に付き合う元気がない。  おれは机にうなだれながらため息をついた。 「これって本当に現実なのか。夢なら早く覚めてくれ〜」 「残念ながら現実ですね。幽霊のぼくが言っても、それこそ現実味がないでしょうけれど」 「っていうかなんでおれに憑いたわけ? 幽霊に憑かれるようなことしたか?」 「いや、若森くんは何もしていません。ただ……」 「ただ、なんだよ」 「そうですね。ぼくは若森くんの好きな人を知っているのに、若森くんがこのことを知らないのはフェアじゃないかもしれません。だからあなたには教えておきます。ぼくの好きな人は若森くんの幼馴染み、小山内さんです」 「はあ!?」  おいおい、ここにきてさらに衝撃の事実を重ねてくるんじゃねえよ。  おれの頭がフリーズしちまうだろうが、冗談も大概にしろ。  しかし、湯原は本気で言っているらしかった。 「小山内さんのことを近くで見ていたい。だからぼくは若森くんに憑いたのです」 「だったら七海本人に憑けばいいだろうが。なんでおれに……」 「それはいけません。見えちゃいけないあんなシーンやこんなシーンを見ることになってしまいますからね。彼女のプライベートは尊重しなくては。それで、彼女の一番近くにいる人間の若森くんに憑くことにしたのですよ」 「おれのプライベートも尊重してくれ」 「すみません。そこは男同士だからということでご容赦ください。大丈夫、最大で3メートルくらいは離れられますから、お風呂やトイレはなんとか覗かないで済みます」 「はぁ……」おれは再びため息をついた。  まあそれはいいや。いや、よくはないんだけど、考えても仕方がなさそうだから、もういいや。  それよりも今日得た情報を軽く整理してみる。  えーっと、つまりだ。  おれは叶谷が好きで、叶谷は幽霊の湯原が好きで、その湯原はおれの幼馴染みの七海が好きってことか。なんてややこしいことになっているんだ。あいだに幽霊が挟まっているってところがさらにややこしい。しかもその幽霊は、おれに取り憑いているのだ。 「そういや、湯原は七海と話したいとか思わないのか?」 「思うには思いますよ。でもぼくと小山内さんが話すには、叶谷さんの霊感を使わせていただかないといけませんからね。今日の若森くんみたいに」 「本当にややこしいな……」  叶谷が湯原に会うためにはおれが協力しなければならないように、湯原が七海に会うためには叶谷が協力しなければならない。  好きな人が好きな人に会うのを協力しなくちゃいけない。  なんという片思いだ。 「でも、若森くんが思っているよりも、さらにややこしいと思いますよ」と湯原が言った。 「はん? どういうことだ?」 「やっぱりわかっていないんですね。鈍感なんだから」  おれがさらに追及しようとしたそのとき、七海が教室に入ってきた。おれは湯原との会話を中断して立ち上がる。 「おまたせ。それじゃあ、帰りましょうか」 「おう」  おれは七海と一緒に学校を出た。  より正確に言えば、湯原も一緒だった。 「で、叶谷さんには告白できたの?」  家に向かって歩きながら七海が訊ねてきた。相変わらずいきなりだ。おれはなんとなく近くを浮遊している湯原を見ないようにしながら答えた。 「いや、できなかった。なんかそれどころじゃなくってさ」 「何かあったの?」 「まあ、いろいろと……」  本当のことなんて言えるわけがない。叶谷の視線の先にあったのはおれじゃなかったというだけでも七海にいじられるネタだが、その相手がおれに取り憑いている幽霊だったなんて言った日には何を言われるか。さっきも言ったが、七海にいじられる体力は残っていない。  おれとしてはありがたいことに、濁した言い方に対して七海は「ふうん」と言うだけで深くは追究してこなかった。 「でもよかったじゃない。失恋の痛手を負わずに済んで」 「いや、それが受けているんだよなあ……」 「あら? つまり告白するまでもなく撃沈してしまったと」 「まあ、状況的にはそうなるのかな……」 「ふふっ。いい気味ね」 「人の失恋がそんなにうれしいか」 「ええ、とっても」  七海は機嫌良さそうに軽やかに歩いた。 「人の不幸は密の味ってか」  おれは苦笑しながら七海のあとに続く。  さらにその後ろには、湯原がふわりと付いてくる。 「まったく、素直じゃないんだから」  幽霊がつぶやいた気がしたが、おれはとうぜん無視をした。
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