雨水の頃――壱

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雨水の頃――壱

 手習い所とは言っても、習うのは生きるための色々の事。雪靴を作るための魔法だとか、火の熾し方。あとは雪がやまなくても洗濯物を乾かす方法とか、バラバラ病の大人たちとの関わり方なんて話も聞いた。  生きるのに困っている子供たちの為に、無償で教えてくれているのだ。  教えてくれるのは子供と大人の境くらいの年長者で、この手習い所には先生役の年長者が二人。十九歳のヤサクさんと、二十一歳のキュウサクさんがいる。  まだ十四歳の俺からしたら二人とも十分に大人だけど、まだ子供側にいる。 「チコ! 聞いているのか?」  今日の先生役のヤサクさんに怒られ、慌てて立ち上がる。 「すみません、ぼぅっとしていました……」 「何か悩みごとでもあるの?」  ヤサクさんが心配そうにこちらを見る。 「俺は……」  言いかけたところで、教室のそこかしこから「俺だってぇ」と笑い声が聞こえた。  いつもの事だ。俺は女だから。  別に男になりたい訳ではなくて、ただ『私』という言葉が嫌いなだけ。可笑しい事だとは分かっているから出来るだけ言わないようにしているし、それ以外の言葉は丁寧に話すように心掛けてもいる。それでも歪を排除したいのが人間だもの。仕方ない。 「とりあえず、教科書の六頁、十二行から読んで」 「はい」  生徒たちの雰囲気に気付いたヤサクさんが助けてくれた。これもいつもの事だ。 「十年前、唐突に蔓延したバラバラ病。これは薬湯や魔法医の治療も効果が無く、どんな治療も病の進行を遅らせるに留まります。症状は口に出す言葉の関連の喪失。会話にならない事であり、次第に精神を病んでいきます。重症者になると紙に書いても言葉がバラバラな事が稀にあります。これらは日常生活を困難にし、特に家族には酷い苦痛を与える症状です。十六歳以上から罹りやすくなるとされ、ニ十歳以上の者はほとんどが発症しています」  淡々と教科書を読む。けれど現実はこんなに淡々とはいかない。 「明日はこんばんは」などと言われ「ご飯は食べましたか?」という質問に「うちの猫が子供をこさえまして」なんて返事が返ってくるのだから。  格子窓からは風に吹かれて雪が入り込むのに、鶯が鳴いた。  家はバラバラ病の母と二人暮らしだ。軽症でご飯だけでも作っていたのは三か月前までで、今では一日ずっとバラバラな言葉を吐いて何かを書きなぐっている。バラバラ病は段々と精神を蝕むのだ。母がそうなっている時は絶対に関わらない。苦痛に満ちた表情で「いい天気ですね!」なんて怒鳴られるから。  教室のあちらこちらから未だに微かな笑い声が聞こえる。けれど全体的には、生徒は真面目に授業を受ける。それぞれがバラバラ病の大人たちばかりになったこの世に困り果てているのだから、聞くしかないのだ。  そうは言ってもヤサクさんたちも大人たちから何かを学んだわけではない。全てが手探りだ。俺たちは何も知らないのと同じ。  一度、バラバラ病の大人が書いた本を読んだ事がある。そこには春や夏の事が書かれていた。暖かな陽射しの中で水遊びをしたと言うけれど、今の子供たちは誰も春を知らない。もちろん夏も。暑くて汗が出て川に飛び込みたくなるなんて想像もつかない。  今この世の季節は秋から春の手前までの二つ。秋分から春分までの、二十四節季のうちの十三をひたすら繰り返している。桜の蕾が見えはじめると、彼岸花が咲いて秋になる。  そろそろ梅の花が満開になるので、桜が蕾のまま万年雪の上に落ちる頃も近い。 「以上で今日の授業は終わり! みんな一人で帰らないようにね」  いつの間にか授業が終わったらしく、ヤサクさんがそう号令をかけた。  まっさらなままの頁を閉じて帰り支度をしていると、ヤサクさんがやって来て長机の前に座る。 「チコ。今日はどうした? ずっと考え事をしていたろう?」  どっかりと胡坐をかいて、ヤサクさんは怒らずに聞く。 「すみません。ちょっと母のことが気になって」 「お母様、どうかしたの?」 「同じ人の似顔絵を何十枚も描いているの。何も食べずに、ずっとなんです……」 「それは気になるね。大丈夫? 一人で家に居られる?」  俺は名残惜しく思いながらも頷く。  母が発症した頃はよく泊ってもらったり、泊めてもらったりしていた。  母は怒ったけれど、言葉はバラバラだから分からない振りをした。 「でも火種が消えちゃって、火を熾したいんです、けど……」 「いいよ。一緒に行って火を熾してあげる」 「ありがとうございます。大人達みたいに、火の魔法が使えたらいいですよね」  俺がそう文句を言うと、ヤサクさんは優しく同意してから「でも」と続ける。 「魔法について僕たちはほとんど何も知らない。大人たちのほとんどがバラバラ病になってしまって聞けないからだ。書物やうろ覚えの知識を繋ぎ合わせただけの、こんな曖昧な状態で火の魔法を使うのは危なすぎるよ。火事になってしまうかもしれないし、爆発してしまうかもしれないからね。いい?」 「はい」  ヤサクさんに頭を撫でられて、顔が熱くなる。  この人は俺が見つけた明日への希望だ。終わりの雰囲気すらする冬の中にパッと咲いた梅の花のような人だ。この人といると、初めて心が温かくなった。 「ヤサクさんは、桜の花が咲くのを見た事がありますか?」 「あるよ」  そう答えて宙を指でなぞる。指先から溢れる桃色の光が一輪の花の姿を描いた。 「これが桜の花」 「きれい……!」 「実は夢のようにしか覚えてないんだけどね。三歳か四歳だったんじゃないかな?」  ヤサクさんは言いながら頭を掻いた。
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