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第二幕 「承」
沢山の色とりどりの花環やスタンド花がそれほど広くもない帝都劇場のロビーに、ところ狭しと飾り立てられていた。
本日は公演最終日ということもあり、ロビーの外にも内にも、華やかな一張羅の着物姿に袴姿の女学生らしき集団が溢れかえっている。
眩暈のするような鮮やかな着物の色の洪水と、蔓延するクスクス笑い……ヒデはミチに引っ張られて渋々やってきたのだが、女学生の団体を見て怖じ気づいた。
「おい、まさか。ここへ入るつもりか?」
「そうだけど?」
茶色がかった瞳を悪戯っ子っぽく輝かせてたミチは言った。
「やっぱり、俺はやめておくよ……」
尻込みをするヒデ。
「え~、ここまで来てそれはナイわ」
そんな会話を二人がしていると、劇場の正面玄関にスッと大きな白いクルマがつけられた。
中から、まるで白鳥のようなしなやかな姿が降り立ち、キャアァァ……!っと悲鳴のような怒号が爆発した。
「ミヅキ様よ!」
「素敵!本物の方が綺麗だわ」
「本当、王子様みたい……」
ドッと押し寄せる女学生達を付き人にガードさせ、少女達に『ミヅキ様』呼ばれた人物は、キャアキャア悲鳴をあげる集団には目もくれずに大股で楽屋の方向へ歩いていく。
「おい、ミヅキ」
ずいぶんと横柄な、ねっとりとした口調でデップりと太った中年男が、楽屋扉の前で彼女を呼び止めた。
「……」
ミヅキは無言のまま、刺すような異様な光を湛えた視線をその男に向ける。
「今夜はこの演劇評論家の尾崎様がいらっしゃってる。不様な姿はみせてくれるなよ」
傲岸不遜な態度の中年男は、彼の隣に並ぶ悪趣味な原色のシャツにマントを羽織った男に向かって二重顎をしゃくった。
「ハッ、これはこれは。近くで見るとまた一段とお綺麗なお嬢さんですな」
尾崎と紹介された見るからにひとクセありそうな男は、イヤな目つきでミヅキの全身を舐め回すように見た。
(あれは……?)
(あら、貴女知らないの?ミヅキ様のお父様よ)
(あぁ、あの方が椎名伯爵?初めて見たわ。失礼だけどあんまり……ミヅキ様に似てらっしゃらないのね)
(しっ、失礼なことを言うもんじゃないわ……あっ、その隣に居るのは評論家の尾崎先生じゃないの)
会場中でヒソヒソ声が飛び交う。
「失礼いたします」
ミヅキは父親の連れである尾崎に素っ気なく頭を下げると、扉の奥へあっという間に姿を消した。
(あの冷たいところが、また痺れるわぁ)
(あぁ、あのスラリとした足に踏まれてみたい……)
何やら怪しげな呟きも聞こえてくるほど、『ミヅキ様』は中性的な魅力と艶かしさ……、何やら倒錯的な香りのする色気を漂わせていた。
「あいつが、ミヅキか?」
「あぁ。僕の初恋、だな」
ミチはぼんやりとした様子で、幾分、頬を赤らめて言った。
「恋、だと?」
幼馴染を困惑したように見つめてヒデが呟いた時、けたたましいベルが開演五分前を告げた。
そのベルを合図にミヅキの父親、椎名伯爵が恐縮しきりな支配人に特別室に案内されていった。それを見て、女の子たちも客席へゾロゾロと歩いていく。
一気に閑散としたロビーで、ほっとしたようにヒデは息を吐き出した。
「やっと静かになった……」
「僕たちもそろそろ行くぞ」
ミチはグイっとヒデを引っ張って歩きだした。
特別室とまではいかないが、舞台を見渡せるほどよい指定席がミチによって確保されていた。
「なぁ、ヒデ。これ、似てたろ?」
ミチはロイド眼鏡をいつもの定位置にグイッと押し上げると、写真をヒデに投げた。
「あぁ。やっぱり双子か?」
「いや、椎名美月は一人っ子だ」
「じゃ、他人の空似か……」
「……かなぁ」
ミチはなんとなく釈然としない様子で写真をヒデから受けとると、大事そうに懐にしまった。
今度は開演直前のベルが短く鳴った。
慌てて駆け込んできた人々が続々と場内に吸い込まれていく。
「さて、寝るなよ、ヒデ」
「その保証はできかねるな」
ヒデは肩をすくめて言った。
「まぁ、騙されたと思って見てくれよ」
ミチは切符切りを持った少年にチケットを二枚渡し、革張りの重厚な扉を押した。
§§§
演目はゲーテの『ファウスト』だ。
なんとミヅキは悪魔メフィストフェレスと主人公ファウストのダブルキャスト。
正に彼女のために作られた台本で、彼女を中心に物語は繰り広げられていった。
冒頭から舞台に彼女が現れると空気が一変し、劇場内はシン!と静まりかえった。ミヅキの動きや台詞一つ一つが、観客の視線を惹きつけ、ほぅっという感嘆の溜め息が場内に溢れかえる。
特に、演技が飛び抜けて上手い、とか容姿が整っているということだけではなく、彼女は他の誰とも違う、圧倒的なオーラを持って舞台に君臨していた。
ミチはもう、何回も見た舞台だったが、毎回見せる顔の違うミヅキにすっかり夢中だ。
ヒデも、無言で食い入るように舞台を見つめていた。
この世のものでないような美しい悪魔、ミヅキ扮するメフィストフェレスの妖しい暗い笑みは、物語を佳境へ引き込んでいく。
あっという間に長く陰鬱な物語は進み、ラストのクライマックスシーンに突入するころには、観客全員がうっとりとミヅキに魅了されていた。
ファウストがとうとう悪魔との契約の言葉、「時よ止まれ」と口にすると同時にオーケストラの効果音と共に暗転し、劇場は一瞬闇に包まれた。
が、すぐにスポットが舞台の上手にあたり、見事な早着替えで、ミヅキが悪魔メフィストフェレスとして鮮やかに登場する。
そして、ファウストの魂は賭けに勝った己のものだとメフィストが主張すると再び、舞台は暗転した。
ほどなく、幕があがると今度はファウストの恋人、グレートヘンの霊の祈りがファウストに捧げられ、魂が天高く上っていくラストシーンへと舞台はうつった。
クライマックスだ。
オーケストラが狂ったように短調を奏で、白い羽根や紙吹雪が舞い狂う中、スポットライトを全身に浴びたミヅキが舞台中央から天井へワイヤーロープで吊り上げられていく。
無数の交錯するライトの光の中で軽やかに手足を動かし、羽衣のような薄物を閃かせながら、彼女は天に向かって手を差し伸ばす。
舞台用の濃い化粧のため、ミヅキの目張りを入れた瞳は炯々と光り、艶かしい唇の紅は冴えざえと濃く……天使というよりも堕天使という方が相応しいような妖しい香りのする、この世のモノではない生物が身をくねらせながら、天に昇っていく姿に観客は釘付けになった。
「あぁ、なぜ彼女の背中には翼がないんだろう……」
幕が降り、割れんばかりの拍手とカーテンコールの中で、ミチはミヅキを見つめながら呟いた。
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