第三幕「転」

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第三幕「転」

「もどってこいよ」 ヒデは客席に座ったまま、惚けたように動かないミチの肩を掴んだ。 「あ…あぁ」 ようやく、ミチは我にかえったようにヒデを見た。 「大丈夫か?」 ヒデは苦笑した。 もう客席に残っていたのは彼ら二人だけだった。 おそらく、今頃はロビーの裏手には出待ちの女学生が群がってることだろう。 「悪い。行こうか」 ミチはすまなさそうに立ち上がった。 「ヒデ、どう……だった?」 ミチは恐る恐るといった様子でヒデに尋ねた。 「凄かった。あれはもって生まれた天賦の才能というヤツだな」 「持って生まれた……」 ミチは意味深に呟いた。 「何だ?」 二人はロビーから出ようと玄関にまわると、何やら物々しい雰囲気が玄関ロビーを包んでいることに気がついた。 てっきり女学生の群れが大挙して出待ちしていると思いきや、入り口に幾重もロープが張られ、代わりに警官達が張りついていた。 「こら、待て。そこの二人!」 「は?」 ぐいっと、突然二人は警察官に肩を掴まれた。 「身元は?こんな時間まで何をしている?」 「おい、離せ」 ヒデはミチを掴んでいた警官の手を強く振り払った。 「俺は南條寺伯爵の嫡男、南條寺 秀穂。秀学院の学生だ。そいつは華山院 通明。華山院侯爵の長男、財閥の跡継ぎだ。いきなりこんな乱暴な誰何をされる覚えはないが」 ヒデは警官を鋭く睨みつけた。 「はっ、生意気なガキめ。侯爵の子息がこんな場所にいるとでも……」 警官たちはあからさまな不信の目を二人に向けた時、 「やめとけ。お前ら全員簡単に首がとぶぞ」 と奥から壮年の男が現れた。 「あ、斎藤警部だ」 ミチがはしゃいだ声をあげる。 「久しぶりだな。こんな所で会うとはよくよく縁があるとみえる」 嬉しそうなミチの様子に斎藤警部と呼ばれた男は苦笑した。 以前、秀学院で事件が起こった時、現場に担当者としてやってきたのが斎藤だったのだ。 「この子たちの身元は私が保証する。各自、持ち場へ戻れ」 斎藤はロープを引っ張ると二人を手招きした。 「よし、もう帰って良いぞ」 「ねぇねぇ、警部。一体何があったの?」 計算された無邪気さでミチは斎藤に尋ねた。 「そうくると思った。華山院の坊っちゃん」 二人を送る円タクを拾うように部下に指示したところで、斎藤は渋い顔をした。 「言っておくが、これは少年探偵ゴッコでは……」 「わかってるってば」 ミチは頬を幼子のように膨らます。 「ねぇねぇ、何があったの?」 「本当は部外者に話すことではないんだがな。仕方ない」 斎藤は、二人にロビーの椅子をすすめた。 「ついさっきのことだ、ここの浴場で殺人事件が起きた。発見者は、ここの浴場の使用人の与吉」 「殺人事件!」 目を輝かせて興味深げに食いつくミチに、斎藤はため息を吐いて続けた。 「それで被害者は?」 「伯爵の椎名 保という男を知ってるか?あんまり評判は芳しくない人物だが」 「椎名って……まさか、ミヅキの?」 「実の父親だそうだ。ここは最初は温泉として作られたことは知っているか?その名残でまだ内部に秘湯のように立派な浴場が残ってるんだ」 「へぇ。誰でも入れるの?」 「いや、関係者だけだ。椎名伯爵は娘が出演者なことを振りかざして、最近入り浸っていたらしい。ここはタダだからだろう」 「ケチ臭い伯爵だ」 自分のことを棚にあげてヒデが言った。 「まぁ、金持ちほど何とかというからな。で、犯行現場はその浴場の洗い場ってわけだ。手口は、裸のところを背後から刃物で一突き。 ここら一帯に非常線を張ってはあるが、今の所、これと言った朗報はないな……」 「目撃者はいるの?」 ミチは質問した。 「与吉が椎名伯爵の後から男湯へ入っていく人物を見たと言うんだが、その男がまた煙のように消えちまったもんで。またこちらとしても訳がわからなくて」 「どういうこと?」 「与吉は入っていく男は見ていても、出ていく所を見ていないと言うんだよ。与吉爺さんの目を信じるなら、犯人は幽霊のように消えてしまった、ということになるな。これじゃとんだ怪談話だ」 両手を下げてお化けのポーズを斎藤はとった。 「その与吉さんが犯人をみているなら、手配書が描けるんじゃない?」 「それが残念ながら、顔は見ていないんだ」 「じゃ、なんで男だと?」 不思議そうに、ミチは聡明そうな顔をコテンと傾けた。 「低い番台からは下半身しか見えないんだと。与吉爺さんが言うには、椎名伯爵の後に入っていった人物の股間には、若いがまぁ……ナニがぶら下がってたそうだ。まさか、その手配書をかかせる訳にもいかんだろ」 斎藤は苦々しい表情を浮かべていった。 「警部、他に怪しい人物はいないの?」 「他に浴場の利用者は女湯で若い女が一人……それ以外に出入りした人間はないな」 「密室ってことか?」 ヒデが言った。 「まぁ、そういうことになるか。何にしろ、厄介な事件だ。華族様相手だっていうだけでやりにくいというのに……」 斎藤から事件の顛末を聞いたミチは、それから何事かジッと考え込んでしまった。ヒデは、斎藤に丁寧に頭を下げるとミチを引きずって劇場を後にしたのだった。 §§§ 「どう思う?ヒデ。何故よりによって、今夜だったんだろう……」 ずっと考え込んでいたミチは、ブルッと身震いするとマフラーを掻き寄せながらヒデに言った。 「寒いのか?ミチ。俺の羽織、貸してやろうか?」 体温の高いヒデが片袖を脱ぎかけた。 「ありがとう。でもそれじゃヒデが冷えるから……」 イギリス風の洋館、鹿鳴館を彷彿とさせるような立派な邸宅に住んでいるくせに、日頃からヒデは着物を好んで着ていた。逆に平安時代から続く華族であるミチは典型的な和風建築だったが、ミチはそんな生家に抗うように徹底的に洋風を貫いていた。 そんな真逆とも言える二人だが、なぜか非常にウマがあい、今日まで大きな喧嘩らしい喧嘩もなく、二人でいることが当たり前のように過ごしてきた。 その友人関係がここにきて、微妙に崩れはじめているのを二人は感じていた。 理由は、そう……『ミヅキ』。 ミチは今や彼女に夢中だった。 円タクから屋敷の前で降り立った二人の影を、アーク灯の光がチカチカと闇に照らしだす。 すっかり、帝都は暗闇に包まれていた。 閑静な住宅街であるここまで、帝都劇場界隈の賑わいは伝わってはこない。 静寂に支配された世界で街路樹のプラタナスや槐がさわさわと揺れ、その音が二人の漠然とした不安を掻き立てた。 今夜は特に風が強いようだ。 「ミチ、あんまり事件のことなんか考えるな。俺達が考えてもどうにもならんだろ」 肩をすくめてヒデは言った。 「あぁ、そうだね……ヒデ。おやすみなさい」 ミチは、庭園の暗い水面に目を向けた。 風にさざめいて、波のように水紋が何処までも広がっていく……。 ミチは、まるで今、回りで起こっている出来事のようだと思った。 もちろん、その波紋の中心は『ミヅキ』……彼女だが。
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