30人が本棚に入れています
本棚に追加
やがて僕の耳に、微かな声が聞こえてきた。帽子の下から覗く紫色の唇が、小さく蠢いている。
嫌だ、聞きたくない。
だが、男は立ち止まることなく僕のほうへ向かってくるので、次第に男の声が言葉となって脳を刺激した。店内に流れる明るい音楽など、もうとっくに僕には聞こえなくなっていた。
「……やさん、ことばやさん、ぼくはことばやさん」
聞きたくないと思っている「音」には、余計に敏感になってしまうらしい。僕は男が紡ぐ聞きなれない言葉を理解しようと、無意識に耳を傾けていた。
「キミが失くした言葉はなあに。なぜ失くしたのか知りたくないかい。知りたかったら教えてあげよう。それがボクの役目だから」
絨毯が敷かれた廊下。足音はしない。男の足がゆっくりと交互に前に出る。
「知りたい筈だ。知りたい筈だ。キミが失くしてしまった言葉」
僕が失くした言葉……?
そんなものはない。僕は何ひとつ失くしてなどいない。
「わからないのかい? ああ、何を失くしたかさえわからないのか。憐れだね。すごく憐れだ」
くっくっく、と男が笑った。僕は恐怖のなかにも、小さな怒りが芽生えたのを感じた。
「怒ったってしょうがないじゃないか。キミは忘れてしまったんだ。とても大切で、大事な言葉を」
失くしてない。
忘れてなどいない。
「ボクは"言葉屋さん"だからね。知りたかったら教えてあげるよ」
急に不安になった。
僕は、僕が失くしてしまったという"大事な言葉"を、すっかり忘れているんだろうか。失くしたことさえ忘れてしまった? この男の言うように?
最初のコメントを投稿しよう!