消 滅 言 辞

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 やがて僕の耳に、微かな声が聞こえてきた。帽子の下から覗く紫色の唇が、小さく蠢いている。  嫌だ、聞きたくない。  だが、男は立ち止まることなく僕のほうへ向かってくるので、次第に男の声が言葉となって脳を刺激した。店内に流れる明るい音楽など、もうとっくに僕には聞こえなくなっていた。 「……やさん、ことばやさん、ぼくはことばやさん」  聞きたくないと思っている「音」には、余計に敏感になってしまうらしい。僕は男が紡ぐ聞きなれない言葉を理解しようと、無意識に耳を傾けていた。 「キミが失くした言葉はなあに。なぜ失くしたのか知りたくないかい。知りたかったら教えてあげよう。それがボクの役目だから」  絨毯が敷かれた廊下。足音はしない。男の足がゆっくりと交互に前に出る。 「知りたい筈だ。知りたい筈だ。キミが失くしてしまった言葉」  僕が失くした言葉……?  そんなものはない。僕は何ひとつ失くしてなどいない。 「わからないのかい? ああ、何を失くしたかさえわからないのか。憐れだね。すごく憐れだ」  くっくっく、と男が笑った。僕は恐怖のなかにも、小さな怒りが芽生えたのを感じた。 「怒ったってしょうがないじゃないか。キミは忘れてしまったんだ。とても大切で、大事な言葉を」  失くしてない。  忘れてなどいない。 「ボクは"言葉屋さん"だからね。知りたかったら教えてあげるよ」  急に不安になった。  僕は、僕が失くしてしまったという"大事な言葉"を、すっかり忘れているんだろうか。失くしたことさえ忘れてしまった? この男の言うように?
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