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「忘れちゃったんだから、しょうがないよ。覚えてないものを思い出すのは難しいものさ」
もし──
もしもこの男の言うことが本当なら、僕は思い出したい。大事な言葉を取り戻したい。
「ふふっ。そうだよね。じゃあ教えてあげる」
男はもう僕の目の前にまで迫っていた。紫色の薄い唇がにいっと笑っているのが見えた。
「キミが失くしたのは"ありがとう"と、それから"ごめんなさい"って言葉だよ」
アリガトウ
ゴメンナサイ………
「短いけど、大切な言葉だろ? キミはボクが消えた後に、この言葉を一番に伝えたい相手に真っ先に伝えなきゃならない。じゃないと、キミは永遠にこの言葉を失ったまま」
ゆっくり、ゆっくりと、男が僕の横を通りすぎていく。
「ボクはキミの味方だからさ。一番に伝えたい相手を間違えないでね」
ふと意識が、まるで突然霧が晴れたかのようにはっきりとした。店内に流れる音楽とざわめきが一気に押し寄せてくる。
気付くと、目の前にはスタッフルームと書かれたドアがあった。さっきまで長い長い廊下があった筈なのに、廊下は灰色の無機質なドアで閉ざされていた。
僕は慌てて踵を返し、店舗の並ぶほうへと走った。あの男の正体を突き止めたかった。だが、半ば予想していたとおり、どこにもあの黒ずくめの姿は見当たらなかった。
白日夢だったのだろうか。一瞬どこか、異次元の世界にでも迷い込んでしまったかのような、不思議な気分だった。
とりあえずエスカレーターで2階へと向かう。おもちゃ売り場の前に、僕の家族を見つけた。僕は家族のもとへ駆け寄った。
「あ、パパ」
「パパー!」
「トイレ、空いてたの? 早かったね」
僕は、僕は、一番に伝えたい相手に真っ先に伝えなきゃ。
ごくりと唾を飲み込むと、妻、長女、そして次女を、順番に見つめた。
「うん……いつも支えてくれてありがとう。それと、ごめんなさい」
突然の告白に、3人ともきょとんとした。
「なにがごめんなさいなの?」
「パパ、なにかわるいことしたのー?」
「したのー?」
3人が3人ともそっくりな顔で首を傾げるものだから、思わず噴き出してしまったが、僕はきっと泣きそうな顔をしていただろう。
ちゃんと伝えなきゃ伝わらない。僕はいつの間にか「ああ」とか「どうも」とかで、この言葉を疎かにしていたんだ。言い訳にもならないが、家族に言うにはなんとなく恥ずかしい、照れ臭いというのがあったんだろう。小さい頃に教えてもらった筈なのに、僕はすっかり忘れていた。
不思議そうに僕を見ていた妻だったが、やがてにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、ママも。ごめんなさい。そして、ありがとう」
「アタシも! いろいろごめんなさい。いつもたすけてくれて、ありがとー」
「ゆあもー! ごめんなさい、ありがとー」
僕は、自分の意思に反して込み上げてきた涙を、ばれないようにそっと手でぬぐった。
***
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