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やはり、視線が追ってくる。左側から。後ろから。ねっとりとした、不気味な気配。
振り返るのは怖かったが、相手の狙いが家族じゃなかった事にほっとしてもいた。
さりげなくポケットからスマホを取り出し、すぐに通報できるようにしておく。前方に「非常口」と書かれた緑色の表示を見つけて、ほとんど反射的に矢印の示す通路へと進んだ。
狭く、両側は味気ない灰色の壁が続いている。非常口というからには、おそらくこの先に出口、もしくは非常階段がある筈だ。そこまで行っても視線を感じるようなら、まずはスタッフに助けを求めよう。
そんな算段をしていたせいだろうか。通路の先にある人影に気付くのが遅れた。
黒の中折れ帽を目深に被り、黒のロングコートで全身を覆っている。まるで枯れ木のような背格好からすると男性のようだが、明らかにスタッフではないし、客だとしても、その空気は異質すぎた。
僕は立ち止まり、その人影を凝視した。足が竦んで動けなかったというのが本当のところだ。さきほどから感じていた視線と同じものを感じる。
黒ずくめの男が、ゆっくりと一歩踏み出した。周囲の空気が揺らいだように見えた。
あれは、何者なんだ──この世のものではない何か、死神や幽霊といったものを想像してしまい、僕は慌てて馬鹿げた思考を追いやった。
あれは、単に黒いコートを着ただけの客。この狭い通路と、薄暗い照明のせいで、気味悪く感じるだけ。
そう自分に言い聞かせても、まるで金縛りにでも遭ったかのように、足はおろか指一本動かすことができなくなっていた。
一歩、また一歩と、男がゆっくり近付いてくる。
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