3.待ち人

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「……武」  地毛の黒髪を短く切りそろえた武が、夕陽を浴びて立っていた。見間違えようもないその気だるそうな立ち姿に、綿谷の胸はきしんだ。 「おまえ……どうしてここに」 「どうしてって、こいつが来いっていうから」  淡々とした口調でそう言うと、彼のうしろから細身の男性が姿を見せた。四月に『ブラックバード』を巣立っていった彼の後輩のトランぺッターだった。 「武さんのことだから、ジャズの聞ける店に顔を出してるんじゃないかと思って、あちこち訪ねて回ったんです。そしたらセッションに出てるって噂の店があって、その場でつかまえてきました。綿谷さんがここにいることはスタッフに聞きましたよ。俺、有言実行しますから」  まだ幼さの残る顔でにっこりと笑ってそう言うと、武は彼のうしろ頭をはたいた。 「おまえのせいで今夜のセッション、出られなくなっただろ」 「せっかく間を取り持ったのに、感謝の言葉とかないんですか?」  後輩がつっかかっていくので、綿谷は思わず吹き出した。腕の中にいた紗弥もいつの間にか体を離して、困ったように笑っている。  武はつかつかと病室に歩みを進めると、紗弥を見下ろして言った。 「……おまえ、また事故ったんだって?」 「あんたには関係ないでしょ」 「車に乗るの、やめればって言っただろ」 「歩いてたら自転車がぶつかってきたのよ」 「……全く、どうしようもないな」 「そうよ。この反射神経を持ってしても、どうしようもなかったのよ」  紗弥がそう息巻くと、武は笑い声を漏らした。彼らのやり取りに慣れている後輩が「紗弥さんって運動神経、抜群ですもんね」と横やりを入れる。紗弥は「うるさいわね」と言って後輩に向かってハンドタオルを投げた。綿谷も一緒になって笑い声を上げた。  そこへ小雪が戻ってきた。武の姿を認めるなり、彼女は大きく目を見開いた。 「いつ……戻って……」 「ついさっき。島田さんとこに弟子入りしたんだって? こいつから聞いたよ」  二年の空白などなかったように武はそう言って、また後輩の頭をはたく。武の結婚が破談になってから、彼らの間でどういう会話がなされたのか、綿谷は知らない。けれど見る間ににじんでいく小雪の瞳を見ているだけで、彼女の気持ちは手に取るようにわかる気がした。 「小雪、財布とって」  停止した空気を破るように紗弥は言い放った。備え付けのロッカーを指さして、小雪の動きを操作する。  小雪が引き出しの中から財布を取りだすと、紗弥は言った。 「人数分の飲み物、買ってきて」 「あ……うん、わかった」  言われるままに小雪が部屋を出ようとすると、紗弥は武を見てさらに付け加えた。 「小雪ひとりじゃ持てないからあんたも行ってくるのよ。そのついでに一時間くらい立ち話してきてもいいから」  早口で言いきると、さっさと行けと言わんばかりに手のひらをふった。つられて後輩まで外に出ようとしたので、紗弥はベッドに座ったまま「あんたはここにいなさい」と引き留めた。  二人の背中を見送ったあと、綿谷は感慨に浸りながら言った。 「君はどこまでもお姉さんなんだね」 「そうよ。最愛の妹のためなら、何だってするわよ」  彼らが出て行った戸口をぼんやりと見て、そう言った。紗弥と武の絆は、恋愛感情はなくても、共に守りたい小雪の存在がある限り切れることはないのだろう。  武の影は消えなくても、紗弥の過去に寄り添うことはできるはずだ――そう覚悟を決めて、綿谷は店から持ってきたタッパーを取りだした。 「休憩時間に食べるつもりで作ってきたんだ。紗弥ちゃんも一緒に食べよう」  ブレンドコーヒーの水筒を取りだすと、そばに立っていた後輩が「俺の分もありますよね!」と期待に満ちた目を向けてきた。 「あんたまだいたの。さっさと帰りなさいよ」 「ええっ、せっかく武さんを東京から引っぱってきたのに、ひどくないですか?」
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