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「タイミング激悪だわ」
紗弥は冷たくあしらったが、後輩も慣れたもので、なんだかんだと食ってかかる。
「ごめんね、先にブラックバードに戻っててくれる? あとで君の好きなもの、何でもこしらえるからさ」
「綿谷さんまでひどいですよ……わかりました。男に二言なしですよ」
泣き真似をしていたかと思うと、彼は途端に姿勢を正してそう言った。
今夜は愛美のコンボが出演することになっている。今戻ればちょうどリハーサルに出くわして、トランペッターの彼は有無を言わさず本番に引っ張り出されることになるだろう。メンバーはプロを志すものばかりで、演奏レベルはかなり高い。それで彼の気が紛れてくれればと綿谷は祈った。
あわただしく後輩が出て行くのを見守りながら、紗弥はため息をついた。
「綿谷さん、今とっても意地悪な顔してましたよ」
「そう? 紗弥ちゃんには負けると思うけど」
満面の笑みでそう切り返すと、彼女は苦々しく顔をゆがめた。サンドイッチの包みを開いてポットのコーヒーを注ぐと、病室は『ブラックバード』の香りに満たされた。
紗弥の表情がゆるむのを感じて、綿谷は胸をなでおろす。
「明日は君の好きなものを作ってくるよ。何がいい?」
「そんな……お店が忙しいでしょ」
「僕だって休憩時間くらいあるよ。明日からはここで休憩を取るから」
さらりとそう言うと、紗弥から笑みがこぼれた。
「じゃあ明太子クリームスパゲティと……」
そのあと、言葉が続かない。視線を彷徨わせる彼女に「それと?」とうながした。
「プリンアラモード……って言おうと思ったけど、それは退院したら自分で食べに行きます」
「相変わらず律儀だね。じゃあ明日はお望みどおりに。料金は前払いでいただきます」
何食わぬそぶりで顔を近づけると、紗弥は体をうしろに引いた。
「……なんですか?」
「さっきの続き。できたら君からしてほしいなあ」
気持ちに少し余裕の出てきた綿谷は、目を細めてそう言った。顔を真っ赤に染めた彼女がベッドから逃げようとしたので、すかさず抱きとめた。
「……やっぱり綿谷さんはずるいです!」
「自覚はあるよ。困ってる君を見て楽しんでるんだから。ほら早く。小雪ちゃんが戻ってきちゃうよ」
「……もう!」
そう叫んだあと、震える手で綿谷の腕を握ってそっと口づけてきた。その優しい温かさは、過去への執着も、未来への不安も全て溶かしてくれるようだった。
前に進むだけが全てではない、この地に留まってできることもたくさんある――
窓から吹きこむ初夏の夜風を感じながら、綿谷は紗弥の小さな手を取った。
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