4.バイバイ、ブラックバード

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 アンコール演奏が終わると、観客たちの指笛と共に武と後輩がステージに引きずりだされた。思わぬトランペットのトリオに観客たちは湧きあがり、なぜ今夜楽器をもってこなかったのかと歯噛みする者もいた。  フロントのヴォーカリストが観客たちからセッションする曲のリクエストを受けていると、小雪がかけこんできた。綿谷が病院を出るときに彼女も一旦工房に戻って、その足でまた店に来ると言っていた。  追加されたソロマイクを調整していると、武と小雪がそっと視線を交わした。さりげないやりとりに、綿谷は胸が熱くなる。  二年前に武が結婚すると決めたあのとき、彼の本意がどこにあったのか今でもわからない。その後、破談になったとき彼は「フラれた」と言っていたが、誰も本当の理由を知らない。紗弥が贈った結婚祝いだけがまだ店に残されていて、いつか嫌味をこめて突き返してやるつもりだった。  セッションの曲が決まったのか、また指笛が聞こえる。武と後輩の他にもたまたま練習帰りで楽器を持っていたプレイヤーや、その場にいるだけで事足りるピアニストやベーシストが最前列の席に座って待機している。こっそりと最後列に座ろうとした小雪が愛美に見つかってしまい、最も目立つピアノの隣に座らされてしまった。  微笑ましく眺めていると、いつの間にか武がカウンターの中に入ってきていた。手にはトランペットをぶらさげたままだ。音響に何か不備があったのかと考えていると、彼は綿谷の腕をつかんでステージに引きずりだしてしまった。 「綿谷さん、『モーニン』やるでしょう」  そう言ってスティックを押しつけてくる。戸惑う綿谷の背中を、その場にいるプレイヤーが次々と押してくる。武はいたずらっぽく笑ったかと思うと、ソロマイクの前に立ってトランペットを掲げた。その挙動を目にしただけで、体の奥に眠っていた細胞が震えて目を覚ます。  ステージに上がると、身体になじんだドラムセットの椅子が、綿谷を待っていた。  武にうながされて着席したとき、ベーシストが小雪に入れ替わっていることに気づいた。困ったように眉を下げながら綿谷に笑いかけてくる。隣で愛美がピースをしている。  この兄妹にかなう人間などいないのだろう――そう考えると笑いがこみ上げてきた。  トランペットの三人が楽器を掲げる。金色の輝きはお互いに反射しあって、目の前に迫りくる瞬間を待っている。  綿谷はスティックを打ち鳴らしてカウント音を出す。小雪がベースをかまえる。武がマウスピースにくちびるをよせて息を吸いこむ。  トランペットのアウフタクトから始まる有名なテーマに、観客たちが湧きあがった。  テナーサックスがない分、後輩の彼がカウンターメロディを吹く。三人そろって同じテーマを吹くと脳がしびれたような感覚に陥る。武と紗弥がいたあの時と同じ、音楽が生み出す果てしない宇宙に向かって綿谷はかけ上がっていく。  突如姿を見せた流星群のようにきらめく武のトランペットソロ――綿谷も、小雪も、きっとこの場にいる誰もがずっとこの音色を待っていた――  小雪と目配せをしてタイミングを取る。うしろにふり返った武が口元に笑みを浮かべている。  この時間が永遠に続くことはないとわかっていても、きっとまた求めてしまうだろう。  そのために自分はこの場所で生きる。この瞬間を待つ人たちのために――  そう心に決めながら、綿谷はミディアムテンポの4ビートを叩き続けた。
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