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セッション後、約束通り後輩に食事をふるまっていると、酒に酔った愛美が綿谷の首に腕を巻きつけて言った。
「私はバイバイブラックバードなんて、言ってやりませんからね!」
「えっ……何のこと?」
ライブに参加していたプレイヤーたちと何か話していたのに、愛美の一言で全てが吹っ飛んでしまった。思った以上に力が強くて、なかなか振りほどけない。
「今お兄ちゃんから店名の由来を聞いたんです。いつか『さよならブラックバード』って言ってほしいからって……なんですかそれ!」
酒の勢いなのか、ライブ後のおかしなテンションのせいなのか、愛美は本気で怒っている。
「いや別に、絶対にさよならしろって言ってるわけじゃないんだけど……」
彼女につかまったまま綿谷がしどろもどろしていると、笑いが起きた。愛美をそそのかした張本人まで呑気に笑っている。ピアニストの大事な指を無理にふりほどくこともできず必死になだめていると、彼女は耳元で大きな声を出した。
「この店の名前で新しいレーベルを作って、CDを出すのが私の夢なんです! さよならなんかぜーったいしませんから!」
「ブラックバード・レコード?」
ビールグラスを片手に持った武が冷かしてきた。目つきの怪しい愛美はカウンターに体を乗り出して叫んだ。
「そう! ブラックバード・レコードを立ち上げるの! 有川商事からも出資してもらうからね!」
「なんだよ、そのバカみたいな話」
「バカとはなによ。お父さんにはもう話つけてあるからねー」
そう言って舌を突き出すと、武は頭を抱えて「親父め……」とつぶやいた。
一同から笑いが沸き起こる。誰もが好き勝手に愛美をあおり始めるそばで、小雪も笑っていた。その様子を穏やかな表情をした武が見つめている。
酔いに任せたにぎやかな喧騒の中、どうか二人の未来が明るいものでありますようにと、祈らずにいられなかった。
来週には元気になった紗弥がやってくるだろう。いつの間にか店の看板メニューになってしまった明太子クリームスパゲティとプリンアラモードで彼女をもてなそう。
この店を訪れる誰もの手に、心穏やかな明日が訪れますように――そう願いながら、綿谷はワイングラスを拭きはじめた。
(おわり)
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