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1.本当の顔
明日、紗弥は人生一番のハレの日を迎える。
それなのに心はどんよりと重くて、鏡の中の自分はじつに不細工な顔をしている。ただでさえでも人前にさらされるのが嫌なのに、顔全体を覆っている黒髪をまとめ上げ、眼鏡もはずさないといけない。
長年愛用している銀縁眼鏡は、もはや顔の一部だ。先日、周りに押し切られて人生初のコンタクトレンズを入れた時、紗弥は大人になった自分の素顔を初めて見た。私はこんな顔をしていたのかと実に感慨深かったが、同時にこんなもの人前に出すべきではないとも思った。
だいたい、新郎の綿谷は眼鏡をかけたままなのだ。髪型だっていつもと同じ平凡な黒髪で、衣装合わせも一瞬で済んでしまった。世の女性が人生の大舞台で着飾りたい気持ちはわからないでもないが、やはり自分に必要なものではないと思ってしまう。
洗面所で百面相をしていると、玄関で物音がした。あわてて眼鏡をかけた瞬間、視界が凝縮した。コンタクトレンズを入れたままだったようで、目眩がおきる。
「紗弥ちゃーん、お店に行く時間、過ぎてるんじゃないの?」
靴をはいたままの小雪が声をかけてきた。薄茶色の髪と瞳を持つ、花の精のような妹。彼女が結婚するとき、どんなに美しいことだろうと夢想していたのに、まさか自分が先に挙式を上げることになるとは思ってもいなかった。
大急ぎでコンタクトレンズをはずすと、銀縁眼鏡をかけなおして息を吐いた。やはりこちらの方が、よっぽど似合っている。
「さっき仕事から戻ったばかりなの。せかさないでよ」
「今日はお休みとったんじゃなかったの?」
「スタッフの子供が急病でお休みになったから、代わりに出たのよ」
洗面所から顔を出して言うと、小雪はため息をついていた。なぜか責められている気がして、紗弥は目をそらす。
大学卒業以来、紗弥は薬剤師として調剤薬局に勤めている。朝、薬局に出勤後、昼間は在宅ケアが必要な患者の家を周り、夕方はまた薬局に戻って仕事に忙殺される日々を送っている。
母が同じ仕事をしていることもあって覚悟の上での就職だったし、黙々と薬を調合することは自分の性にあっていた。妹の小雪は大学時代にレストランで接客のアルバイトをしていたが、無愛想な自分にはとても務まるものではないと感心していた。
綿谷からプロポーズされたとき、一番の懸念はそこにあった。
古い商店街でジャズ喫茶『ブラックバード』の店長をしている綿谷は、素晴らしく愛想がいい。生まれ持ったものなのか、訓練の賜物なのかは知らないが、いついっても穏やかな笑みを絶やさない。
その上、聞き上手な彼は、カウンターの中で作業しながらいつも紗弥の話を聞いてくれる。どんなくだらない話や仕事の愚痴でも彼は感心するようにうなずいてくれて、少しずつ心がときほぐされるような心地がした。
綿谷と結婚すれば、いずれ自分がその立場に回らないといけない。
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