2.前夜

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2.前夜

 小雪が運転する車に乗せられて『ブラックバード』に行ったものの、武は来ていなかった。  拍子抜けした紗弥は、息を吐きながらいつものカウンター席に座る。店は十六時に閉店して、明日も一日貸切になっている。どうやら厨房ではまだ試作をやっているらしく、肉の焼けるいい匂いが漂ってくる。  テーブル席で同期生たちが盛り上がっているのを背に、そういえば夕食がまだだったと空腹を感じる。厨房から姿を見せた綿谷は、いつもと同じ黒いサロンを身に着けていた。 「浮かない顔をしてるね」  ランチに来た時と同じ調子で水を差しだす。余裕のある表情に、自分一人がきりきり舞いをしている気がして、紗弥はふいと顔をそむける。 「……やっぱりやめた方がいいと思います」  うしろにいる同期生たちに聞こえないよう、小さくつぶやいた。綿谷はグラスを磨きながら、囁くように言う。 「マリッジブルーってやつかい?」 「……結婚しても、私はあなたの役には立てないから」  ずっと頭の中で渦巻いていた言葉が、口からこぼれる。この後に及んでこんなことを言う自分に、いいかげん愛想を尽かしているだろうと思うと、顔も見られない。  すると香ばしい肉汁の香りが鼻先をかすめた。思わず顔を上げると、目の前にステーキ用の鉄板が置かれていた。数種類のステーキ肉とソースが用意されている。 「厨房のスタッフがまだ納得いかないみたいなんだ。君が言ったとおりソースを三種類用意したんだけど、どうかな」  そう言ってカトラリーを並べ始める。なんだか話をそらされていると思ったが空腹には勝てず、素直にフォークを手にした。  ジャズ喫茶のこの店で本格的なステーキ肉を調理するのは初めてのことらしく、結婚披露パーティの話が出た時から、試作を重ねてきた。紗弥はいつものメニューでいいと言ったが、料理だけは絶対にゆずれないと綿谷がはりきるので、何度も試食に付き合った。  種類も厚さも様々なステーキ肉を、順にソースにつけて頬張る。ひとつは定番のハンバーグ用のデミグラスソースを改良したもの、それから、すりおろした玉ねぎをたっぷり入れたオニオンソース、最後まで苦労していたわさび風味の醤油ソースの三種類だ。  どれもおいしいが、やはりいつものデミグラスソースの味に舌は素直に反応する。 「私はこれが一番好きだけど、三種類とも出しちゃえば?」 「肉の方はどうかな」 「これが一番やわらかくて肉の風味もしっかりあって、美味しいと思います」  ナプキンで口を拭きながらそう言うと、彼は満足そうににっこり笑った。 「君は十分、役に立ってると思うよ。なんたってこの店の味は、君の舌次第なんだから」  そう言われて、紗弥は目を丸くした。にこにこと笑いながら「うん、うまい」と試食をしている彼を見て、してやられた、と思った。なんだかんだと理屈をこねても、いつもこの調子でやりこめられてしまう。 「でも役に立ってほしいから結婚するんじゃないよ。僕はどうしても君が欲しいんだ」  眼鏡の奥の瞳が優しく微笑んでいる。この顔をされると目を反らせなくなる。
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