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1.旅立ち
有川武がこの街を出て、三度目の春を迎えた。
ジャズ喫茶『ブラックバード』の店主、綿谷がいつものように早朝から開店準備をしていると、よく見知った人物が大きな荷物を抱えて入店した。
「お世話になりました」
そう言って丁寧に頭を下げたのは、武の後輩にあたるトランぺッターだった。
一時期、武の妹、愛美のビッグバンドで1stトランペットを担当していた彼は、大学卒業後プロの道を目指し、ようやく東京にあるレコード会社と契約を結ぶことができたらしい。
大学時代からよく『ブラックバード』に出演していたが、昨夜のライブを最後に今日、上京することになっている。
「ここまでくることができたのも、綿谷さんのおかげです」
「大げさだなあ。君の努力のたまものだよ」
そう言いながら、床のモップがけを始めた。祖父の代から使われている年季の入ったフローリングを丁寧に磨くことが、開店以来の日課になっている。
「あの……武さんから、連絡はないんですか?」
「うんまあ……時々マナちゃんから近況報告は聞くけどね。便りがないのは元気な証拠だって言うし、仕事で忙しくしてるならそれでいいかなと思ってさ」
「もし向こうで会えたら、必ずお知らせしますね」
「ありがとう。君も元気で。活躍を祈ってるよ」
緑色の眼鏡のふちを持ち上げながらそう言うと、彼は瞳をうるませた。念願の東京でのCDデビューは、同時にこの地との別れを意味する。ずっと見守ってきた後輩が旅立つことに寂しさはぬぐえないけれど、それは待ち望んでいた日でもあった。
さし出された華奢な手を、綿谷は握り返した。背が高く威圧感さえある武とは対照的に、後輩の彼は細身の優男で、一見するととても1stトランペットを務められるようには見えない。
けれど一度トランペットを構えれば、強烈な吸引力を持って観客を魅了してしまう。ある時は春のやわらかな日差しのように、ある時は真冬の寒風のように自在に音色を操る技量に、綿谷は惚れ込んでいた。
いつかきっと世界を駆け巡るプレイヤーになる。そしていつの日か「さようならブラックバード。こんなところにはもういられない」そう言って羽根を広げてほしい――そんなプレイヤーを輩出することが、開店当時からの夢だった。
それは武がいたから始まった夢だった。父が急死した時点で閉店するはずだったこの店を、プロプレイヤーを育てる場所に仕立て上げたのは、彼がいたからこそだった。
「俺きっと、武さんをつかまえてこの店に戻ってきますから」
彼はすばやく目元をぬぐって言うと、大きなバックパックを背負いなおした。ずいぶん頼もしくなったその表情に安堵しながら、綿谷はうなずいた。
地上に出て後輩を見送ると、ゆっくりと地下一階に続く階段を下りた。七年前の開店当初、この階段に貼りだされていたポスターやリーフレットには、武の名前が多くあった。
プロのトランぺッターになるはずだった武は二年前に父親の会社を継ぐと決め、この地を去った。当時、よくこの店に出演していたベーシストの荻野小雪とドラマーの堤信洋も大学卒業後、それぞれの道へと進んだ。
唯一、武の妹である愛美がプロピアニストを目指し、『ブラックバード』に連日出演している。
跡を継ぐために上京した長男、高校生のときに事故死した次男の夢を受け継ぐようにして、愛美は日々邁進している。
ブラックボードに今夜の出演者名を書きこみながら、息を吐く。ここに武と自分の名前を書かなくなってずいぶん経った。世代交代、といえば仕方ないのだろうけれど、やるせなさも抱かずにいられない。
しぼみかけた気持ちを立て直すように背筋を正すと、「よし、今日もがんばるぞ」とつぶやきながら店の中に入っていった。
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