2.前夜

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「気まぐれでふっと姿を消されるのも困るけど、君が他の誰かのものになるのはもっと耐えられない。結婚すれば君は僕のものだ。ずっと手放さないつもりだから、その覚悟はしておいて」  穏やかな笑顔とは裏腹に、綿谷の声は紗弥の身体をぎゅっと縛りつける。息苦しいけれど心地よくて、ずっと酔っていたくなる響きをしている。  泣きそうになるのをこらえながら、紗弥はうつむいた。すると彼はカウンターから出てきて隣に腰かけた。綿谷がカウンター席に座るところを見るのは初めてだった。  彼は手を伸ばすと、紗弥の前髪をかき分けながら言った。 「……まだ何か、未練がある?」  その言葉に身を固くする。この年上のずるい男は、何でもお見通しだという調子で紗弥の心の中に入ってくる。観念するときもあれば、とっさにシャッターを下ろしてしまうときもある。長年、紗弥の中に張り巡らされた自己防衛本能が綿谷にまで発動して、そのたび、たまらなく嫌になる。 「悪い、遅くなった」  そこへ武が入店してきた。黒いブイネックTシャツにベージュのコットンパンツと相変わらず地味な格好だ。髪もいかにも社会人らしく短いのに、目だけは今も変わらずジャズトランぺッターの熱を秘めている。 「すっげえいい匂い。まだ試食やってんの?」  そう言いながら、近づいてくる。無遠慮に紗弥の隣に腰かけると、紗弥が使っていたフォークにステーキを突き刺して頬張り始めた。 「明日のメニュー、決まりましたか?」 「うん、これで最後だね。食材の調達は明日の朝に済ませるし、十分間に合うよ」  二人は紗弥をはさんで話し始める。武は「そりゃよかった」とつぶやきながら、紗弥の飲みかけの水まで口にした。幼い頃からの知り合いとはいえ、遠慮がなさすぎる。綿谷が気を害していないかとこっそり様子をうかがったが、いつもの微笑みからは何も読み取れなかった。  同期生に呼ばれて武と紗弥が同時にふりかえると、その拍子に肩が当たった。彼は「悪い」とだけ言って立ち上がる。紗弥は何も返せなかった。ただ、触れた肩が熱い。 「……用が済んだなら帰ってもいいですか」  紗弥がぼそりとつぶやくと、綿谷は目を丸くして言った。 「ああ、うん。明日は朝が早いしね。送って行こうか?」  腰にかけたチェーンホルダーを探ったが、紗弥は首を横にふった。 「小雪と一緒に帰ります。明日はよろしくお願いします」 「はい、よろしくお願いします」  紗弥の調子に合わせて、彼は丁寧に頭を下げる。付き合って一年も経つのに敬語が抜けないことを咎めもしない。そのことに甘えきっている自分にも気づいている。  明日から共に暮らすこの人に、自分はどう寄り添えばいいのだろう――答えの出ない問いかけは、いつまでも頭の中で回り続けた。
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