1.旅立ち

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 午後二時ごろ、ランチタイムの喧騒が引くのを待つようにして荻野(おぎの)紗弥(さや)が入店してきた。  カウンターの中にいた綿谷を認めると、ほんの少しだけ口の端を上げる。  彼女の特等席はカウンターの端から二つ目だ。綿谷が水の入ったグラスをさし出すと、大きな黒い鞄を椅子の上に置いて、「いつもの」と口にした。  凝り性の彼女はひと月近く同じものを食べ続けている。今は明太子クリームスパゲティにご執心のようだ。  小雪の血のつながらない姉である紗弥は、薬剤師の仕事をしている。外回りの合間にランチを食べに来るようになって、もう五年になる。初めの頃は月に数回だったのが、今では週に二回は必ずやってくる常連客だ。  武と同じ大学の同期でもあり、当時はテナーサックスを吹いていた。紗弥たちより二学年上の綿谷も何度か同じビッグバンドに所属したことがある。目立つことを好む武とは対照的に控えめなプレイヤーだったが、一度だけ武のコンボに引きずりだされたことがあった。綿谷もドラマーとして参加していた。  あの時の『モーニン』を、今も忘れることができない。  彼女の隣にある空席を見つめていると、銀縁眼鏡をかけた顔をずいとよせてきた。 「お客の目の前で、考えごと?」  低い声でそう囁かれて、我に返った。サラダの器を手に持ったままだったことに気づいて、あわててさし出す。 「いや……今朝、巣立った子がいてね。僕らも年を取ったものだなあと考えてたのさ」 「それ、乙女にいう言葉?」  綿谷が取り繕った言葉に、紗弥が返してくる。この意地悪そうな瞳に見つめられるとどうにもくすぐったくて、もっとからかいたくなってしまう。 「紗弥ちゃんはまだ二十八だろう。僕はもう三十をこえてしまったし、すっかりおじさんだね」 「私も二年すれば綿谷さんと同じ歳です」 「世間でいう結婚適齢期だね。誰かいい人はいないの?」  そう切り返すと、彼女は口を突き出した。薄化粧の可愛らしいくちびるが、綿谷に向かって怒っている。 「どうしてそんなこと聞くんですか」  カウンターの一枚板を見つめながら紗弥がつぶやく。綿谷は何も言えず、食事用のカラトリーを並べていく。紗弥はじっとその手の動きを見つめている。今にもかみつきそうな目つきでいるものだから、手の内側に嫌な汗をかいてしまう。  綿谷の手からフォークをもぎとると、顔を上げて言った。 「あのバカがいなくなってから、そういう話ばっかりですね」 「だって君は、武と一緒になるものだと思っていたから」 「見当違いだって、やっと気づきました?」 「うん。バカなのは僕の方だったね」  そう言いながら、注文の入ったコーヒーを注ぐ。祖父の代から受け継がれてきた配合を自分なりにアレンジして今の味にたどり着くまで七年もかかった。苦労の甲斐あってか、最近はコーヒーだけを飲みにくる客も増えた。  彼女の隣――カウンターの端は武の特等席だ。いつもあの席に座ってトランペットを吹いていた。変わらない紗弥の隣には、今も武の幻影が見える。  「綿谷さん、ここで音出していいですか」――まるで昨日言われたように脳内で再現される音声が、心臓を縛りつける。  武と紗弥が同じ施設の出身だと知ったのは、紗弥と出会ってずいぶん後になってからだ。
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