1.旅立ち

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 幼少期にそれぞれ別の家に引き取られ、偶然にも同じ大学のサークル内で再会した彼らのことを誰もが恋人同士だと思っていた。一回生の頃から「紗弥」「武」と呼び合っていたし、二人のあいだで生まれる絶妙な会話のリズムのせいで、疑う余地もなかった。当人たちが違うのだと否定しても、冷やかしの対象になるだけだった。  綿谷も大多数のひとりだった。武と同じ一軍ビッグバンドに所属し、彼が酒に酔った勢いで紗弥との関係を愚痴るようになって初めて、二人の間には恋愛感情がないことを知った。  武が追っていたのは、事故死した弟、慎一郎と瓜二つの容姿を持つ紗弥の妹だった。そのことに気づいてからも、紗弥が誰を想っているのか推測すらできなかった。  二人は否定しているが、本当のところはどうだったのだろうという疑問が、今でも胸の奥でくすぶっている。  厨房から上がってきたパスタ皿をさし出すと、紗弥は荒っぽく受け取った。 「あのバカから連絡はないんですか」 「まったく。君のところには?」 「あるわけないでしょう」  紗弥はきつく睨むと、さっさとスパゲティを食べ始めてしまった。長い黒髪を耳にかけて何ともないそぶりを見せているが、食べる手元が怒っている。  またやってしまった、そんなつもりではなかったのに――そう考えながら、こっそりため息をつく。  貴重な時間をやりくりして足を運んでくれるのだから、少しでもリラックスできる時間を提供したい――その思いでこの店をやっているのに、このところ彼女を怒らせてばかりだ。  武がいなくなって今が最良のときだと思うのに、この二年、いなくなった彼の存在は際立つばかりだ。少しはいい雰囲気になった時期もあったのに、そこからどう彼女との距離を縮めればいいのか、わからないでいる。  せめてものお詫びにと、ランチセットには含まれていない新作のプリンアラモードをさし出すと、紗弥はますます眼力を強めた。 「頼んでないですけど」 「紗弥ちゃんは舌がいいから、試食してもらおうと思って。君がおいしいって言ってくれたメニューは必ず大ヒット商品になるんだよ」  ひるんではいけない、と自分に言い聞かせながらブレンドコーヒーをカップに注ぐ。この味に至るまで、彼女にはずいぶん助言をしてもらった。今でも実家に住んでいることもあって料理はほとんどしないそうだが、舌には間違いがなかった。紗弥が毎回注文するようになれば合格点をもらえたことになると、スタッフたちも口をそろえて言っている。  ソーサーに角砂糖をふたつ添えてさし出す。紗弥の目元がゆるんでくるのを確認して、ほっと胸をなでおろす。 「……綿谷さんはずるいです」  うつむいてボソリとつぶやく。綿谷は返す言葉がない。  この数年のあいだに、強がりな彼女からわずかばかりの本音を聞けるようになった。力の入った眉がふとゆるむとき、素顔を見られるようにもなった。  けれど二人の間にあるこの長いカウンターを、一体いつになったら越えられるのか――文句を言いながらもプリンをほおばってくれる彼女の口元を見つめて考えても、答えはでてくれなかった。
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