2.モーニン

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 閉店作業を終えてスタッフたちが帰ったあと、綿谷はひとりドラムセットの前に座っていた。  傷だらけのスティックを握って、バスドラムのペダルに足をかける。毎日聞いている音なのに懐かしい振動が伝わってきて、脳が揺さぶられる。  左足でハイハットのペダルを踏み、4ビートを叩き始めた。ツーッツッツ、ツーッツッツと何千回繰り返したかわからないリズムを口ずさみながら、ミドルテンポで刻み続ける。  学生時代はスティックを握らない日はなかった。大学を卒業してプロの道を歩み始めた矢先に父親が死んで、この店を再開させると決めた時も、スティックはいつもそばにあった。  店が軌道に乗り、出入りするプレイヤーが増えて日々の業務が忙しくなると、いつの間にかドラムは遠ざかっていった。一度離れると戻る術を見出せなくて、日に日に上達する後輩たちの姿を羨望の眼差しで見つめるばかりだった。  スネアドラムを叩きながら、ドラムヘッドがずいぶん痛んでいることに気づく。買い求めたとき既に中古品だったから、裏側にはってあるスナッピーの交換も必要かもしれない――  そう考えながらスネアドラムを持ち上げていると、木製の扉がゆっくりと開いた。 「あの……忘れ物しちゃって」  そう言って姿を見せたのは小雪だった。長い薄茶色の髪がふわりと揺れる。 「ああ、そういえばアンプの上にチューナーが……」  綿谷が立ち上がろうとすると、その動きを制するように頭を下げながら店内にかけこんできた。ベース用のアンプに置かれたチューナーを手にとって息をつく。 「わざわざ家から取りに戻ってきたの?」 「いえ、工房で作業してたんですけど、ないことに気づいてあわてて戻ってきました。綿谷さんは閉店後にドラムの練習をされてるんですか?」  そう言われて、あらためて自分がスティックを手にしていたことに気づいた。首をふってスティックを握りなおす。熱を帯びたそれは、今の自分には少し重かった。 「君たちの演奏を聞いたら、久しぶりに叩きたくなってね。ほったらかしにしてたから、ドラムに怒られてるみたいな気分だよ」  クラッシュシンバルを叩きながら笑いかけると、小雪も笑った。その笑顔のむこうに、ふと紗弥の怒った顔が見えた。  こっそりため息をつくつもりが、思いかけず吐息の音は大きく響いた。小雪の薄茶色の瞳がじっとこちらの様子をうかがってくる。武が言っていたのはこの目のことか――そう思いながら、綿谷はバスドラムを踏んだ。 「このドラムはね、開店するときに武と一緒に探したんだよ。内装のリフォームでずいぶん借金があったから、楽器はできるだけ安いものをと思って中古品を買い求めたんだ。小雪ちゃんが使ってるアンプも年季が入っているけど、音はいいからね。ピアノだけは元々この店にあったけど、他は全部、武と吟味したものなんだ」  小雪の瞳の奥に、当時の武の姿が見える。まだ次男の慎一郎が生きていた頃で、未来は希望に満ち溢れていた。自分のプロになる夢は途絶えてしまったけれど、いつか武がこの店の名を背負って世界に羽ばたくのだと、信じて疑わなかった。  うしろに戻る道はなく、ただ明日に向かって邁進する日々だった。結婚を約束していた女性と上手くいかなくなって別れたことさえも、いつの日かプラスになるだろうと信じていた。  隣には揺るぎなく立つ武がいたから、迷わず前に進めた――  けれど現実は思い描いた通りにはならず、彼はプロの道を断念した。二年前に上京したきり、連絡もない。あの頃の自分たちと同じように夢に向かって突き進む小雪たちの姿を見ながら、進むべき道さえ見失っている。  眼鏡のレンズ越しに見える小雪の瞳が、痛いほど胸に突き刺さってくる。綿谷はそっと視線をそらす。情けないけれど、夢を追う日々は遠い昔話になってしまった。一日足りとも忘れることができない輝かしい思い出―― 「……客を呼び込もうにも、こんな寂れた商店街に足を運ぶ若い人はいなくて……毎日チラシを配りに行ったよ。あるとき、一駅隣に音楽の専門学校があるから、そこの駅前でストリートライブをやろうって武が言いだして、その時初めて君のお姉さんとコンボを組んだんだ。かなり無理やりだったみたいで怒っていたけど、少しずつ客が入るようになった。武と紗弥ちゃんがいてこその『ブラックバード』なんだよ」  そう言って微笑むと、小雪も頬をゆるめて相槌をうってくれた。ふと彼女なら武と紗弥の本当の関係を知っているのではと思ったが、今の彼女に問いただすのは酷な気もして、綿谷は口をつぐんだ。  静まり返った店内をぐるりと見渡して、息を吐く。フローリングの古い木目を生かした調度品や煉瓦造りの壁、天井からぶらさがる白熱灯風の照明も、全て武の発案によるものだった。彼のために仕立てた空間で、彼のトランペットを聴く日々はもう過ぎ去ってしまった。
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