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綿谷はゆっくりと立ち上がると、カウンターの下にある音響機材を操作した。しばらくして店の四隅にあるスピーカーからアート・ブレイキー・ジャズ・メッセンジャーズの『モーニン』が流れ始める。
「武がこの曲をやりたいって言ったとき、紗弥ちゃんはかなり抵抗してたよ。こんな有名な曲を自分なんかが再現できるわけないって嫌がってた。けれど……どうやって口説いたのか武はストリートライブを実現させてしまった。サックス歴の短い彼女が武のために必死になって練習したのは明らかだった。そのときから二人の間に揺るぎない絆のようなものを感じて、僕はとても間には入れなくなってしまった」
言いながら、あの頃のわだかまりを未だに払拭できないことに気づく。ぼろぼろとこぼれ落ちる本音は、磨き上げたカウンターをとめどなく汚していく。
「……武はもういないのに、彼女の隣にはいつも武の影が見える。まるで守護霊みたいに彼女を見守っている。それが僕のくだらない妄想だと気づいていても、武の姿は消えない。それでつい言いたいことをごまかして、彼女を傷つけてしまう」
わずかに震える拳をカウンターに押しつけて、小雪を見る。武は彼女に慎一郎の面影を見てしまうと言っていたけれど、綿谷にそれが見えたことはない。ただいつも紗弥の隣には武がいる。空想の産物は不都合なときばかり現れて、勝手に自己を暗い世界へ貶めていく。
一度口元をぎゅっと結ぶと、意を決して口を開いた。
「君は……武に、紗弥ちゃんの影を見たことはないのかい?」
ずっと黙っていた小雪が目を見開いた。寂しげに眉を下げるその顔を見ながら、やはり聞くべきではなかったかと後悔が押しよせてきた。
しかし彼女は意外にも口元に笑みを浮かべて言った。
「いつも、見えてました。とても割りこめないって感覚、すごくわかります。でも仕方ないんです……あの二人は同じ悲しみを抱えて生きてきたから。今は少し……薄れた気がします。タケ兄も紗弥ちゃんも、道は違うけれど、きっと明るい方を目指して歩いてる。それに紗弥ちゃんが必要としてるのは、もうタケ兄じゃないんだってわかっちゃいましたから」
そう言ってにっこりと笑う。自信に満ちた真っ白な歯が、綿谷を不安にさせる。
紗弥が必要としている人物を、自分は知っているのだろうか――
思慮をめぐらせていると、カウンターの隅に座った小雪が、綿谷の肩をポンと叩いた。
「もう、しっかりして下さいよ。人のお世話ばっかりしてないで、ちゃんと自分のことも考えてくださいね」
意味深な目をしながら笑いかけてくるので、綿谷は首をひねった。いつもの癖でカウンターに置いてあるグラスと布巾を手に取ると、小雪は「それがいけないんですよ」と言って笑った。
「綿谷さんはずるいんだって、紗弥ちゃん怒ってました。年上風を吹かせて結婚の話ばかりするから、もう口なんてきいてやらないって、拗ねてましたよ。手のかかる姉だけど、よろしくお願いします」
そう言って丁寧に頭を下げる。
そういうことか――腑に落ちた綿谷は顔に血液が上昇するのを感じながら視線をそむけた。
「もう……来てくれないかな」
一抹の不安を感じながらつぶやくと、小雪は立ち上がって言った。
「好きの裏返しなんですよ。私も最近わかってきました」
余裕のある顔で笑うと、小雪はチューナーを手に店を出た。
颯爽としたうしろ姿を見ながら、つらい恋をした分、妹の方が一枚上手だなと考えると、自然と顔の筋肉がゆるんでくる。
次に紗弥が来るまでに、彼女が喜びそうなデザートを考えようと思った。無心になって手を動かしていると、それまで店内を覆っていた重苦しい靄が少しずつ晴れていくようだった。
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