4.バイバイ、ブラックバード

1/3
32人が本棚に入れています
本棚に追加
/25ページ

4.バイバイ、ブラックバード

 店の扉を押すと、ちょうどライブの本番が始まったところだった。扉のすき間から漏れ出してきたコーヒーの香りとドラムの4ビートが、綿谷の全身を満たしていく。  ステージに立つ男性ヴォーカリストがよく響く低音を操っている。彼はトランペットも兼任していて、ずいぶん前から愛美がオファーを出していたそうだ。  そっと客席のうしろを回っていくと、店の切り盛りを頼んでいたベテランのスタッフが紗弥の容態を聞いてきた。黒いサロンを身に付けながら簡潔に説明する。紗弥と同い年の彼女は自分のことのように胸を痛めていたようで、様子を話すとホッと胸をなでおろした。  カウンターの隅に座った武が、強い眼差しをステージにむけている。その視線の鋭さから、トランペットをあきらめていないことがわかる。隣に座った後輩も、ふだんの柔らかな風貌から想像できないくらい真剣な面持ちで演奏を聞いている。  足元にそれぞれのトランペットケースを置いているところを見ると、ライブ後にセッションをする約束を取りつけたのかもしれない。  今夜ふたたびこの場所で彼らの演奏が聞けると思うと、身震いが起きた。   厨房をのぞくと、夜の開店準備が追いつかなかったらしく、下ごしらえは中途半端に投げ出されてシンクにも食器が山積みになっていた。武たちの飢えた獣のような表情を見ていると共に演奏したい衝動に駆られたが、自分にはやるべきことがあると言い聞かせて、綿谷は作業台の片づけを始めた。  本番中も次々に下げられてくる大量の食器を洗っていると、武がふらりと厨房の中に入ってきた。 「何か手伝いましょうか」 「かまわないよ、さっきこっちに戻ってきたばかりなんだろ?」  そう言った先から次々に注文が入ってくる。予想以上の客の入りに、料理の準備もままならなかったようだ。普段ならセットしてあるカトラリーケースも空で、必要に迫られて洗い始める始末だった 「俺でも皿洗いくらいならできますよ」 「そういや開店してすぐの頃はよく手伝ってもらってたなあ……じゃあお言葉に甘えて」  下洗いの済んだディッシュプレートを業務用の食洗機につっこんで、武と場所を代わる。ライブが後半にさしかかるとデザート類が出始めるので、急いでフルーツの下準備に取りかかる。 「小雪ちゃんとは話せたのか?」 「ええ、まあ」  包丁を握る手を止めずに、武の様子をうかがう。一瞬目が合ったが、彼はふいと反らしてしまった。今までにも何度か小雪のことを尋ねたことはあったが、いつも武は口が重い。 「僕の大事な妹なんだから、幸せにしてくれないと困るよ」 「いつの間にそんな話になったんですか」  めずらしく武が声を上げる。食器を洗う手が止まったので、綿谷は包丁を握ったまま、作業を続けるように合図を出した。 「僕がその気になってるだけだから、彼女に余計なことを言わないようにね」 「どうしてですか? 紗弥のやつ、飛び上がって喜ぶんじゃないですか」 「その逆なんだよ。今回みたいに逃げられたら困るから、ぎゅっとつかまえてからプロポーズするよ」 「今回ってなんですか?」  大量の水を流しながら首を伸ばしてきたので、綿谷は口の端を持ち上げて笑った。 「おまえには教えてやらない」  フルーツを取るために冷蔵庫に向かうと、武は水を止めて洗い場から出てこようとした。両腕に新鮮なフルーツを抱えて「お前の持ち場はここ」と言いながら彼を押しこめる。  厨房にいる限り、綿谷の方が立場は上だ。そのことが分かっている彼は悔しそうに眉をしかめながら皿洗いを再開した。  戸口のむこうからトランペットの音色が聞こえている。武のために作り上げたこの場所で、ひとりまたひとりとプレイヤーが巣立っていく。いつの日か「さようならブラックバード」と言われることをただ待ち望んでいる。  そのために尽くせることは数限りなくある――あわただしく出入りするスタッフたちに指示を出しながら、綿谷は無心にデザートを作り続けた。
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!