2.モーニン

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2.モーニン

「小雪、おっそーい!」  午後四時になり、ディナータイムの仕込み時間をかねてライブのリハーサルが始まった。久しぶりに同期の三人でピアノトリオを組めると意気込んでいた愛美が、白いグランドピアノから立ち上がって声を上げる。 「ノブなんか張り切って三十分も前から来てたんだよ!」 「ちょっとマナ……それは言うなってさっきから何度も……」  ドラムセットに座った信洋が、顔を真っ赤にしながら立ち上がった。そこへウッドベースを抱えた小雪があわただしく入店してきた。 「ごっ……ごめん! 出ようとしたら急にリペアの依頼が入っちゃって……」  息も切れ切れにベースを運ぶ小雪に愛美がかけよった。怒りながらもさりげなく荷物を引き受けるところが愛美らしくて、テーブルをふいていた綿谷はこっそりと笑う。   その様子を信洋もまた、ドラムセットの影から眺めているようだ。口元が少しほころんでいて、温かなまなざしを向けているようだった。  大学卒業後、信洋は専門学校に進み、柔道整復師の国家資格をとった。今は整骨院のスタッフをしながら開業する日を目指していると聞いている。  一方、小雪は大学四年のときに就職活動をしていたようだったが、一般企業には就職しなかった。武がいなくなってから一年の間に島田弦楽器工房に足しげく通い、いつの間にかリペアラーの島田に弟子入りをしていた。  小雪がベースの準備をするのを眺めながら、愛美が声をかける。 「もうリペアの仕事を受けられるようになったの?」 「まだ見習いよ。島田さんに迷惑ばっかりかけちゃってる」  小雪はそう言って眉をしかめた。その表情のむこうになぜか紗弥が見えて、綿谷は思わず手を止める。血がつながっていなくても、近頃の彼女にはよく紗弥の面影が見える。 「一人前のリペアラーになったら知り合いをいっぱい送りこむからさ、がんばってよね」  愛美が明るく笑うと、小雪の表情にもわずかに光がさしたようだった。  ベース奏者とはいえ弓も満足に使えない状態での入門だった。工房では他の弦楽器も扱っていることもあって、今はまだアルバイト店員にすぎないと笑っていたことがある。  学生時代はよくかげりのある表情を見せていたが、リペアラーを目指すようになってからの小雪には力強さが見えかくれするようになった。  寝る間をおしんで弦楽器の勉強をし、昼間は工房に通いつめ、夜は演奏者としてのレベルを高めるために『ブラックバード』に出演する。決して綿谷に愚痴ったりはしないけれど、その夢の先に何があるのか、何となくわかる気がした。  きっと小雪も紗弥も、自分と同じものを待っている――  ピアノトリオのリハーサルが始まると、綿谷はカウンターにひっこんだ。ここで出演し始めた頃はよく綿谷に助言を求めてきていたが、最近は彼らだけで音楽を組み立てている。指示を出すのはもっぱらバンドマスターの愛美だが、小雪も信洋も数年前とは見違えるほどの落ち着きを身につけて、多少、愛美の怒号が飛んでも揺るがなくなった。  ワイングラスを磨きながら、そういえばステージに出たのはいつが最後だったろうと考える。  後輩たちの頼もしい姿を見て微笑ましく思う一方で、自分は前進どころか後退しているのではという疑念が、浮かんでは消えた。
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