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日の光の下で千早と会うのは初めてかもしれない。
冬の空は水彩の青のように薄く澄んでいる。
この駅で人を待つのは、もう何度目か思い出せないほどなのに、ロータリーの奥に見える空の美しさに目を奪われた。タクシーや、行き交う人々の間から見える青には、雲のひとつも見当たらない。
トントンと肩を叩かれて振り返ると、人差し指が頬に刺さった。
「古典的な手にひっかかるねえ」
「やめろって、もう…」
ベンチから立ち上がる。千早は、サングラスも帽子もない姿で後ろに立っていた。
「やあ。このあいだはデートで聴きに来てくれてありがとう」
「間違いじゃないけどさ」
「お、やっぱり?」
以前は六人部隊長に少し顔立ちが似ていると思ったけれど、いまは違う。かつて持っていた得体のしれない空気は形を潜め、いたずらっぽい、楽しげな色が目に浮かんで見えた。
「立ち話もなんだから、ちょっとつきあってよ。知ってる店があるんだ」
千早に促されるままに彼の後についていく。駅からすぐの雑居ビルに入り、その階のボタンを押したとき、おれは思わず声を上げた。
「そこって」
「ああ、なんだ知ってるの?こんにちは、マスター!」
どう考えてもバーが開いている時間じゃないのに、千早はドアを開けて店の中に入っていく。グラスを磨いていた藤堂さん(確か、そんな名前だったと思う)は、千早をみとめて目を見開いた。
「……千早さん」
「久しぶり。来るのが遅れてごめん。少し、飲んで行っても構わない?」
「もちろんです。仕込みながらで良ければ」
「十分さ。酒なら自分でいれるから。さ、星野さん、そこに座って」
動揺は一瞬だった。藤堂さんは、すぐに落ち着きを取り戻してグラス磨きを再開した。おれは千早の隣に座って、店の中をぐるりと見回した。なんだか印象が違うと思ったら、ブラインドされていた窓が開けられていて、日の光が入り込んでいたのだ。その灯りに照らされていたのは、物が色々と置かれた状態になっている――アップライトピアノだった。
「もしもアンフォゲッタブルを弾いてくださるなら、酒はごちそうしますよ」
グラスをライトに照らして確認しながら、ひとり言のように藤堂さんが言った。
「お安い御用。じゃあ、ジントニックをふたつお願いしようかな」
千早が立ち上がって鍵盤をポンと叩き、おや、というような顔をした。
「調律されてる。もしかして、おれのために?」
「まさか」
くすっと笑った千早が、あの魅力的な声でナット・キング・コールの名曲を歌いはじめる。おれのような素人からすると、どうして鍵盤も楽譜も見ずに弾けて、しかも弾きながら歌えるのか分からない。
甘い声は酒よりもずっと深く心に染み入り、藤堂さんは手を止めて遠い眼で千早を眺めていた。
「あの」生野千早の生演奏を聴けるなんて、ファンからすればすごく贅沢な時間だ。現実感が薄いほどに。ここに一保さんがいないことがとても惜しいと思った。きっとすごく喜んでくれただろうに。
「綿谷いつかくんは才能のある子だよ。ただ彼のお母さんは少し…エキセントリックなところがあるけどね」
ジントニックを飲み干したおれたちは、飲み物をビールに変えて本題に入った。
「彼を家に閉じ込めて、演奏だけをひたすらさせたらしいよ。だからいつかくんは、義務教育もろくに受けてないんだ。次第に彼は心を病むようになって…典型的な毒親ってやつ。ひどかったみたい、部屋に外からカギをかけられてね。一日に5時間も6時間も、ひたすらヴァイオリンを弾かされて」
そうだったの、と返事をしながら口に手をあてる。おれと似ていると思ったけれど、とんでもない。おれのほうがまだ、人間的な生活を送っていた。
「父親は世界的に有名な指揮者だったらしいよ。彼が物心つく前に離婚しているけど。元はね、いつかくんのお母さんの方もヴァイオリンのソリストとして活躍していたみたいなんだけど…。ジストニアって知ってる?」
救急医療ではあまり馴染みのない傷病名だが、知識としてはしっている。
「イップス…同じ動きを長い期間しているときに起こる病気だよね。ピアノの演奏中に指が急に曲がったり、動かなくなったり」
千早は頷き、目を細めておれを見た。
「そう。いつかくんを産んでしばらくしたら、かかってしまってね。仕事を諦めざる得なかったそうだ。そこから、いつかくんに執着し始めた。3歳の子どもにヴァイオリンを持たせて、毎日弾かせる。ミスをしたらひっぱたく、大声で怒鳴る。学校に行かせず、誰にも会わせない。家庭教師はつけていたみたいだけれど」
子どもはいつでも親の犠牲だ。そう呟いた千早の声は重く沈んでいた。
「…だとしても、彼の演奏は素晴らしかったよ」
「聴いたんだね。そうなんだよ。それに嬉しい事を言ってくれて」
千早がにこりと笑った。
「この環境がおかしいと気づいたいつかくんから、手紙をもらったのはおれなんだ。ファンレターさ、うれしいだろ。Eメールでね、やり取りするようになった。はじめは演奏者として近づいて、共演して、彼の母親の信頼を得た。それから、夏樹先生に連絡を取って、彼に保護してもらうことにした。夏樹先生といつかくんは、元々知り合いだったみたいだよ。なんでも、彼がみる不思議な夢と関係があるんだとか…」
そこで一度言葉を切った千早は、さきほどまでの笑みを消してこちらを見た。
「もう一人いるんだって、きいたことがある」
「もうひとり…?」
「自分の中にもう一人いるのだと。別の男…子どもらしいんだけど、その子がいつも言うらしい。お願いだから自分の兄弟を探してほしいって」
ちょっと、変だと思うよね。でも嘘をつくような子じゃないんだ。
「その男の子は、夢の中で話しかけてきて、未来を言い当てるんだって。他にも不思議な力があって…でもそれは教えてくれなかったんだけどね」
囁いた千早の言葉に戦慄した。未来を言い当てる。つまり――
「一保さんが…おれのせいで死ぬって、予知か」
ウソだとも思う。そんなことがあるわけがない、とも。
だが同時に知っていた。この世界には自分たちが知らない力がある。一保さんがいま共にいてくれることも、それらを証明することのひとつだ。
「……それ、いつかくんが言ったのか?」
眉を寄せる千早に疑問を抱いた。…一保さんの名前なんて、伝えたか?
「星野さんの恋人、可愛かったからね。連絡先をきいたんだ、村山一保さんでしょ」
「千早」
「分かってるよ。別におれはゲイってわけじゃないし。…バイだけど」
「あの人に触るな、おれのものだ」
違う。誰のものでもない。彼は彼のものだ。
分かっている。けれど心の奥底では、自由でのびのびとした、天真爛漫な彼を自分だけのものにしたい。自分のもとへ縛り付けたい。誰にも見せず、見られたくない。
自分にこんなドロドロした気持ちがあったなんて知らなかった。誰かに執着し、つなぎとめたいと願い、触れたくなる。欲望の塊が突如目の前に現れたみたいだった。
「やっぱり、星野さんは変わったよ」
千早は嬉しそうにそういって、ふたたびピアノの前に座った。そして何曲かジャズのスタンダードナンバーを弾いた後で、The Beach Boysの「素敵じゃないか」を歌った。おれも一保さんも大好きな歌のひとつだ。自然と頬が緩んでしまう。
「手伝えることがあったら、なんでもいって」
「うん、ありがとう」
紙幣を置いて立ち上がろうとすると、藤堂さんに「お代はいりません」と断られてしまった。
「彼の演奏で充分ですから」
「でも、おれは何もしないですし、置いて行きます」
店を飛び出して、早足で歩いた。季節のせいか、午後3時を過ぎたところなのに日がすでに翳りはじめている。冬の空は、夏の空に比べてどことなく薄暗くて寂しくなる。
――家に来てもらおう。一緒に住んでもらうんだ。
そうすれば、少なくとも仕事の時間以外は彼を守ることができる。あんなに強い人に、おれができることなんて少ないかもしれないし、そもそも「予知」だなんて、誰に言ったって信じてくれないだろうけど。
側にいたい。おれに出来ることがあるならなんでもしたい。あの人を失うなんて考えられない。
明後日の朝、彼は非番で帰ってくる。そのまま自分の家に来てもらおう。温泉に行くのは夕方からだけれど、朝から出掛けるまで、ずっとおれの家にいてもらおう。
そう考えて、メッセージを送った。勤務中だから、返事がないことはわかっていた。
『家についたら電話して』
留守番電話サービスにメッセージを残す。切ろうとして、言い忘れた一言を添えた。
『愛してます』
なんで敬語なんだよ、と彼が笑う顔が思い浮かんで、短く息を吐いた。
こんな心配、杞憂で終わりますように。そう願いながら日が沈む方向へと歩いた。南区、海がある方へと向かうバス停がある場所に立ち止まり、15分に1本のバスを待つ。このまま家に帰っても心配で何も手に着かないし、眠れそうにない。こんなときは一保さんがいつか言っていたみたいに、海を見てみようと思った。
波の音を聴いていると心が落ち着く、と彼は言った。産まれてくる前、自分が誰かの中にいたころの記憶が呼び覚まされるのだと。
そうして夜の海を眺め、すっかり身体が冷え切ってから家に帰りついた。すでに日付が変わっていたので、慌てて風呂に入って布団にくるまった。もしかして休憩時間に返信があるかもしれない、と思い、携帯電話を手に取ったが、何の着信もメッセージもなかった。
「明日は、連絡くれる。きっと」
自分に言い聞かせるように呟いて目を閉じると、次第に眠気に意識が引っ張られていく。
目が覚めて朝が来て、そして夜が来ても、携帯電話は鳴らなかった。心配のあまり、合田隊長に電話をしたけれど、ずっと呼び出し音が鳴ったまま、繋がらなかった。
彼の勤務明けだった日から丸1日経った夜中、電話が鳴った。心配で眠りが浅くなっていたおれは、枕元で震えた携帯電話を、壊しそうな勢いで掴んで画面を叩いた。
「もしもし!」
知らない番号だった。けれどその声には聴き覚えがあった。
『星野?』
「そうです、あなたは?」
おれの質問を無視して、電話口の男は言った。
『一保が事故にあった。由記市の救命センターで、危篤状態だ。すぐに来い』
言葉の意味を理解する前に、電話が切れる。
足元がぐにゃりと歪んだ。目の前が白くなって、息が上手くできない。
「嘘だ」
足が震えた。救命センターは三嶋先生が勤めている病院だ。優秀な医師ばかりで、これは何かの間違いだ。頭が現実逃避しようとするのとは逆に、手は震えたまま携帯電話と財布をポケットに押し込む。
自転車で…、いや、夜は危ない。じゃあバイクで、と考えたが、まともに頭が働かない今、とてもじゃないけど乗り物なんて運転できない。でもこうしている間にも…、いや、何かの間違いだ。そうに決まってる。だって、ほんの何日か前に、一緒に旅行に行った。キスをした。抱き合った。笑っていた。
ふらつきながら靴をはき、大通りでタクシーを拾った。行き先を告げてからずっと身体を震わせているおれを見て、タクシーの運転手は何も話しかけないことに決めたらしく、黙々と最短ルートで救命センターに横付けしてくれた。
救命センターの構造はよく知っていた。救急隊にいたころ、何度も運んできたからだ。裏口にある救急入口から入って、待合で人影を探す。少なくとも、おれに連絡してくれた男がそこにいるはずだ。
だが待合室に人影はなかった。歩きまわって人を探したが、誰もいない。
処置室の方へ入っていくと、手術室の前でうつむいて顔を抑えている女性がいた。その隣では、呆然と廊下を眺めている男がいたが、顔がよく見えない。
「…星野くん」
一保さんのお母さんだ。その顔は涙に濡れ、憔悴しきっていた。隣の男が顔を上げておれを見て、「お前」と声を上げる。それはさっき、電話で聴いた声だった。
「一保、何かを追いかけるみたいに走って、横断歩道を渡っていたそうなの。そこに、車が」
「お前じゃないだろうな!?」
男は千葉さんだった。血走った目でおれを睨みつけ、胸倉をつかんで持ち上げてくる。
「一保、誰か呼びとめながら走ってたって、お前じゃないのか!?」
「やめて千葉くん、そんなはずないわ。だって、星野くんはいま知ったんでしょう?」
反論する言葉のかわりに、かすれた息が出た。なんだこれ。まるで本当みたいだ。夢じゃなくてリアルみたいだ。自分が揺れる感じも、ふたりの声も。
さらに千葉さんが何かを言おうとしたとき、手術室のドアが開いた。中から、汗ですっかり色のかわった術衣を身にまとった三嶋先生と佐々木先生が出てきて、一保さんのお母さんの前で立ち止まった。
「……お力になれず、申し訳ありません」
「うそでしょう」
三嶋先生の視線がおれに止まって、つらそうに目を細めた。
「お亡くなりになりました」
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