3(成一)

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 千早の人気は凄まじかった。  確かに彼の演奏は天性の輝きを持っていて、声は人を惹きつけてやまない個性があり、おまけに顔立ちも端整だ。人気が出る理由は分かるけれど、かつて気安く話をして、ジントニックを作ってもらっていた彼のイメージとなかなか一致せず、ステージの前でサインや握手に応じているのを、なんとなく遠巻きに眺めていた。ファンサービスをしている千早は、かつてのような皮肉っぽい笑みではなく、幸せそうな微笑みを浮かべてひとりずつ丁寧に応じていた。 「行かなくていいんですか?」  隣でお酒を飲んでいる彼に声をかけると、「女の人ばっかで行きにくいんだよな~、ついてきてよ、友達なんだろ」と甘えるような口調で誘われた。少し酒が回ってきたのか、健康的に日焼けしている頬がうっすらと赤くて、正直ぐっとくるものがある。おそらくこの人自身は何も意識していないし、考えていないんだろうけど…。  なんでおれはこう、無自覚に色気を放出してくるタイプに弱いんだろう。  色気垂れ流しタイプとか、分かってて狩りに来るような女の子なら嗅ぎ分けられるし、適当に逃げることもいなすこともできるのに。 「分かったよ、いけばいいんでしょ行けば」 「なんでちょっと怒ってんの?あ、わかった。照れてんだな?まかせろまかせろ、おれ初対面ぜんっぜん緊張しない派だから。多分マイケル・ジャクソンと会っても緊張しねーぞ自信ある」 「マイケルでも!?それはそれですごいですね……?!」  ステージの前で列に並び、自分たちの番がきたとき、一保さんは本当に旧来の友達みたいに落ち着いた、それでいて厚かましくない程度に親密な雰囲気で「いつも応援してるよ、大ファンなんだ」と伝え、右手を差し出した。仕立てのいいスーツに身を包んだ千早は、知っていた頃よりも髪の色が暗くなっていて、伸びた髪は後ろにふわりと撫でつけていた。 「どうもありがとう。…星野さんのお友達かな?」  丁寧で気持ちのこもった握手を返し、微笑み返す。よそゆきの対応をする千早に、思わず吹き出してしまった。眉を上げてこちらを見た一保さんの隣で、おれは千早に向かって親指を下に提げるジェスチャーをしてみせた。 「おやおや、お行儀が悪いですよ、星野お坊ちゃま」  茶化すような物言い。これこそ千早の真髄だ。  楽しくなって、肩を軽く手のひらで叩くと、千早が肩をすくめた。 「だれが坊ちゃんだ。……チケットをどうもありがとう、ライブ最高だった」 「来てくれてよかったよ。星野さんは相変わらず…ううん?ちょっと変わったかな?大人っぽくなった気がする」 「それはそれは。ありがとうって言ってほしいのなら残念でした、年下のくせに本当生意気なやつめ」  笑い合う。一保さんが、まぶしそうにおれたちふたりを見た。 「親しそうで妬けるな」 「そう、どっちに?」  千早の間髪いれない返しに、おれは「調子に乗るな」と割り込む。  列の後ろをちらりとみやってから、千早が耳元でささやいた。 「友達には見えないけど」 「うるさいよ。へんな邪魔したり横やりいれたらぶっとばすから」 「わあ。星野さんの口からぶっ飛ばすだって!…ねえおふたりさん、このあと時間ある?じつはおれ、一杯やりたい気持ちなんだけど、よければ奢ってくれないかな」  他のファンに聞こえないように、小さな声でそう言って、一保さんにウィンクした。 「まさか生野千早とお酒飲めるなんて、身に余る光栄だな。ジントニックの美味い店にしようぜ」  そう囁き返してから、一保さんが笑っている。あっという間に誰とでも親しくなってしまう彼の魅力が、いまは少し疎ましい。 「とりあえず、ファンの皆様にご挨拶がすんでからでしょ。じゃあね、ジャズ界の新星」 「ちょっと星野さん、それやめてくれる?!あ、星野さんのお友達、またあとでね~~」  手を振った千早の前から強引に一保さんを連れて行く。名残惜しそうにしているのが腹立たしいし、腹立たしくおもっちゃう自分の狭量加減がたまらなく情けなかった。 「ちょっと風にあたろっか」  店を出て、海辺の遊歩道を歩いた。秋の、すこし寂しさを帯びた風は、由記市の海辺とはまた少し違う潮の匂いがした。 「あの橋って横浜ベイブリッジかな。すげーキレイ」  強い風に髪が乱れるのも気にしないで、一保さんが嬉しそうに海の向こうを指さす。ライトアップされた首都高が、街明かりの中でも一等ぴかぴかと目立っていた。  どこからともなく、『All You Need is Love』のメロディと電子ピアノの音が聴こえてくる。前を歩いている彼は大股に歩きながら、そのメロディを鼻歌でなぞった。 「一保さん、All You Need is Loveってどういう意味ですか?」  振り返った彼の眼は、暗闇で光る猫の眼みたいだった。冴えていて、神秘的で、挑むような色を浮かべたまま、彼はすうっと目を細めた。 「『愛こそすべて』みたいな意味……だよな!」  おれの後ろに向かって、一保さんが声をかける。いつのまにか真後ろに立っていた男が、サングラスを外して、ななめ掛けしているキーボードをかき鳴らした。 「お待たせいたしました、ジントニックのお客さま~」  肩にかけていた籠から、グラスをふたつ取り出して千早が笑った。 「うわ、作ってきてくれたの?」 「冷たいんだもんな~。一緒にのもうって言ったのにさ。まあいいよ、おれのことはBGM係だと思ってくれたら」  ロンググラスを手渡された一保さんは、手品をみたような顔でぱちぱち瞬きしてから、「なにこれ、夢?」と言って笑った。 「おれは行きずりのストリートミュージシャンだから気にしないで」  そう宣言してから、千早は海辺の階段に座り込み、キャロル・キングの『So Far Away』を弾き語りはじめた。魅力的な声が、小さなキーボードのやや安っぽい音を補って余りあるほどすてきに、ジャズっぽく、名曲をつむいでいく。 「ほら、乾杯して、おふたりさん」  理由は知らないが、千早はおれと一保さんの関係を何か勘違いして――応援しようとしているらしい。 「なんだかよく分からないけど…最高に贅沢だな。乾杯」 「あはは、乾杯。千早のジントニック、美味しいですよ」  ぐいっと煽って、一気に飲み干す。  喉の動き、ぐいっと口元を拭うしぐさ。どこからみても大人の男で、興奮する要素なんて何もないのに。何気ない無邪気な振る舞いが、堂々とした迷いのない視線が、いちいち視線を奪っていく。磁石のSとNになったみたいに。 「ほんとだ。すげー美味い」  飲み終わった一保さんは、長い溜息をついてからごちそうさま、とお礼を言い、座っている千早の側、置かれたままの籠の中へグラスを入れた。それから、千円札を数枚、かごの中へ潜り込ませ、「Moanin'やってよ」とリクエストした。 「いいけど、おれにジャズ演らせるならいい雰囲気になってキスぐらいしてよね」  ぎょっとしたおれとは対照的に、一保さんは冷静な顔で肩をすくめる。 「おれと成一はまだ会ったばっかの友達だよ、そんなんじゃねえし」  どこか硬い声でいわれて、なぜかおれは傷付いた。言葉のとおりなのに。 「ふーん?」  千早が何か言いたげな顔でこちらを見る。おれは眉を寄せて、「お前、なんでこんなとこで油うってんの」と問いかけた。 「ずっとライブハウスで弾いてると、息がつまりそうになんの。だからこうやって、時々キーボード持ち出して好きな曲歌うんだ。おれは音楽が好きだし、音楽もおれのことが好きだけどね、誰かに好かれるためにやってるんじゃない。プロなのに甘いって言われるかもしれないけど、人のために弾くのは時々とても面倒になる」  言い終わった途端に、千早は眼にもとまらない超絶技巧でキーボードを叩き、斬りかかってくるみたいな勢いでMoanin'を弾き始め、弾き終わり、圧倒された一保さんが拍手をするのにも構わず、ジャンル問わず好き勝手に歌った。遅い時間でもそれなりの人通りがあるから、千早の声と演奏はあっという間にひとだかりを作り、手拍子を生み、さながら野外ライブの様相となった。 「いきましょっか」  一保さんの腕をつかんで、人混みの中から抜け出す。驚いた顔のまま、でも楽しそうに後ろをついてきた彼と、赤レンガの公園を走り抜け、街を横切り、息が上がるのも構わずに追い抜いたり追い越されたりした。いくら夜中と言えども、成人男性ふたりが街中を走っていると相当目立つ。 「ねえ、一保さんのおうちって、どこですかっ」  毎日走り込んでいるから体力には自信があるけど、一保さんの足もなかなか強い。ペースを全く落とさないまま、一保さんは駅を通り過ぎ、住宅街の方へと入っていく。 「この先にある、公務員宿舎!来るならコーヒーぐらい、いれてやるぜ」  息も乱さずに一保さんが言った。ふりむいた顔は、誰が見ても胸がときめく、100点満点の笑顔だった。  本当のところ、おれはコーヒーが苦手だけど、絶対飲み切ってやろうと思った。美味しい、ありがとうって全力の笑顔でいってみせる。  宿舎は質素な間取りとつくりをしていて、飾りっ気もなかった。  玄関のシューズボックスの上には、旅が好きな友人からもらったという、不思議なお面や置物の数々が雑然と飾ってあって、統一感もオシャレ感も全くないのになぜか心が和んだ。良く分からない貝殻とか、手のひらサイズのシーサーとか、たぬきとか。これ買う人いるの?っていつも思うようなもの、大集合だ。多分誰にどう思われるとかどうみられるとか、このひとにとってどうでもいい事なんだろう。いつも人目や評価を気にして生きてきたおれには、その無頓着でラフなところが心底羨ましいし、かっこよく見えた。 「散らかってるけど、手とか勝手に洗えよな。おれコーヒー淹れてくる」  フローリングの1Kで、大体8畳ぐらいだろうか。ベランダに出るためのおおきな窓をふさぐように、セミダブルのベッドが置かれていて、その分手前には広めのスペースが確保されている。ローテーブルと、カリモク60のモケットグリーン(二人掛け)は幾何学模様をしたラグの上にあって、壁にはマリメッコのファブリックボードが飾ってある。 「北欧調なんだ……ちょっと意外です」 「あー部屋のもの全部妹と母ちゃんが選んでっから。おれは金出しただけ。ほんとはなんでもいいんだけどさー、恋人がいつ来てもいいような部屋にしろつってうるさくて。フランス人じゃあるめーしよー、宿舎だっつってんのに」  カーテンやベッドのファブリックも、カラフルでとてもオシャレだ。玄関といい服装といい、身の周りのものに無頓着な様子だったから一瞬(やっぱり彼女がいるのでは)と疑ったけれど、違ったらしい。 「なんでフランス人が出てきたんですか、いま」 「あいつらとイタリア人は年がら年中恋愛のことばっか考えてるもん」  キッチンに消えた一保さんの本当か嘘か分からない言葉に笑ってしまう。 「イメージは確かにそんな感じですけど」  おおきめの声で、一保さんがキッチンから返事をした。 「アメリカに住んでた頃、通ってたパン屋があるんだけどさ。フランス人がやってた店で、とにかくハードパンが全部すっげーうまくて。毎朝そこでパン買って、食いながら学校行ってたんだけど、あいつらほんと勤勉の意識低いんだよ!やれデートだ、やれ記念日だって店休みやがって。おれの朝飯どうしてくれんだよ」 「そう考えると日本ってすごい国ですよね、電車も遅れないし……」 「そうだよ。時間の感覚でいえば意外とアメリカ人も近いもんだったけどな」 「ほんとうに?アメリカ人って、なんだかすべてにおいておおざっぱな印象だったけど」 「家族や恋人との約束の時間はきっちり守るぞ。ただし修理工は時間通りに来た試しがないし、アメリカの車はすぐ壊れる。やっぱ車と修理は日本だぜ」  コーヒーのいい香りがする。ミルクを入れてほしい、と言いだそうかどうか迷っていると、5分もしないうちにテーブルに置かれたのは、できたてほやほやのカフェラテだった。 「あんま苦くないやつだから、飲めると思うぞ」  そう言って、一保さんは隣に座らずに、ラグの上であぐらをかいて自分用のカップを両手で包み、ふうーと息をふきかけた。 「……おれ、言いましたっけ?ブラック飲めないって」  冷ます息が一瞬とまった。彼はゆっくりと首をこちらに向けて言った。 「カミングアウトすると…おれは超能力者で、人の心が読めるのさ」  得意気な声。冗談とは思えなくて、おれは身を乗り出し、まじまじと彼を見た。 「おい、笑うか突っ込むかどっちかしろよ」  恥ずかしそうにそう言ってから、にっこり笑う。これだ、このひとの日本人離れしてるな、と思うところは。  彼は、眼があうと誰にでも笑いかける。やあ、とか元気?とかそういう感じで、笑顔のバーゲンセールである。 「あなたは笑うとかわいいですよね」 「はァ!?っば……バカじゃねーの、男が可愛いとか全然嬉しくねえし!!むしろ年上に対して失礼だろいますぐ謝れ」 「ごめんなさーい」 「心こもってね~~~!!」  乱暴な言葉とは真逆の笑顔でそういって、下からおれを見上げる。目の前のつむじと、つやつやした黒髪のくせっけ。 ――髪を撫でたい。  そしてそのまま、日焼けした、かたちのいい頬に触れたい。  その感情が普通じゃないことに気付いてそっと溜息をつく。ソファから降りて、ラグの上に座りカフェラテを口にした。香りが良くて、とても美味しい。 「飲めそう?」  視線を感じて顔を上げる。おいしいですよ、と言おうとして、声が喉につまった。  こちらを見つめている一保さんの視線は、やっぱり誰かを探していた。切実で、一途な想いで、おれじゃないひとを、おれの中に見つけようとしていた。  けれど居心地が悪くて苦しい理由は、きっとそれだけじゃない。 「……ないで」 「え?」  おれの小さい声を聞き取ろうと、一保さんがおれを覗き込む。間近で彼と目が合ってしまい、やめようと思った言葉が思わず口をついて出た。 「誰かと重ねておれを見ないで」  多分、確信を得たのは今だ。  おれの言葉に、一保さんは眼を見開き、固まった。  もし思い当たることがないなら、彼はきっとストレートに「何のことだよ?」と訪ねてきたに違いない。そうしたらおれも、妙な勘違いをしてしまったな、と安心することができたけれど、彼の反応は、おれの言葉が正しいことを示していた。 「もう遅いので、帰りますね」  立ち上がって、お礼や挨拶もそこそこに部屋から出る。ドアが閉まる直前、玄関まで見送りに来た一保さんが一度だけ「成一」と名前を呼んだけれど、それだけだった。  ケンカしたカップルみたいに、何度も振り返ったり立ち止まったりしながら駅に向かう。腕時計をみると、もう夜11時を過ぎていた。明日も仕事だというのに、たのしくてすっかり時間を忘れていたことに呆然とする。  何やってるんだろう、おれは。  一体彼に、どうしてほしかったというんだろう。あんなにやさしく招き入れてくれたのに、こんな態度を取ったら、もう自分から連絡することが出来なくなってしまう。  でも、嫌だった。  誰かを重ねて、期待されるのはつらい。だっておれは、おれ以外の誰かになることなんて、永遠にできないのだから。
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