1(成一)

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1(成一)

 夜になると落ちつかない。  またあの夢を見ることができるのか、不安になる。 「――……」  夢によく出てくる人物はふたりいた。  ひとりはかつての上司で、見事に振られてしまった六人部隊長。彼の夢を見ると、おれはいつも悲しい気持ちで目が覚める。好きだったのに、もうあの人を自分だけのものにすることはできないんだ、と絶望する。  彼の夢はだいたい仕事中で、斜め後ろから横顔を盗み見ているようなシチュエーションが多かった。  凛とした、意志の宿った横顔。救急車の中だったり、駅のホームだったり、病院の前だったり。  指示をする時だけ唇は薄くひらき、迷いない視線がレーザービームみたいに正確に、強烈におれを射抜く。  隊長バッグを肩にかけた彼は振り向いてくれないし、待ってくれない。夢だから、呼び止めても意味がない。六人部隊長はどんどん先に行ってしまって、走って追いかけても追いつけなくて、最後は三嶋先生と手を取り合って何処かへ消えてしまうのだ。  目覚めた時、悲しくて暗い気持ちで朝を迎えて、一体何日経てば立ち直れるんだろう、と絶望する。  そこまではいい。失恋したら普通のことだと思う。  問題は、もうひとりの方だった。  そのひとは声を持たない。顔も見えない。それなのに、特別な人だったことを覚えている。  名前も声も、顔もわからないのに。  夢の中で、彼の後ろに見えるのはいつも海だった。きらきらと眩しい朝の海。泳ぐのが苦手なおれは、海なんか好きじゃなかったはずなのに、毎日夢に海が出てきた。ある時は楽しげに泳いでいて、ある時は浜辺で座って話し込んでいる。隣には、いつも顔の見えない、声の聞こえない男の人がいて、おれはその人に向かって一生懸命話している。仕事のことや、上司のことや、 ――かつて好きだった人、六人部隊長のことを。  一緒にお酒を飲んでいることもあった。大体ビールを飲んでいて、その時は海じゃなくて古い家の中で、ふたり、縁側のようなところに腰掛けて月を眺めていた。   彼の夢を見て目覚めた日は、いつも泣いていた。  それなのに、どこか救われたような気持ちになっているから驚く。 「……走ろ」  涙を拭って目覚まし時計を止める。レスキュー隊に配属されてから異例の早さでHR入りの辞令が出たのは、救命に特化した救急救命士ばかりの隊が今年度から新設されたからに他ならない。一期生の実力が足りなければ、来年度以降この隊はなくなってしまう。  苦しみにも悲しみにもふたをして、仕事に打ち込む。それが、社会人ってやつなのだ。泣いたりヘタレたりするのは、仕事が終わってから。  勢いよく起き上がってシャワーを浴びて、ランニングウェアに着替えた。頬をパーンと両手で叩き、その仕草すらどこかで見たような気がして戸惑いながら、朝日が昇ったばかりの街に飛び出す。  1年半を想定していた海外派遣だったが、なぜか半年で呼び戻された。  帰ってくるなりレスキュー隊選抜試験を受けに行かされ、なるほど、これが上の意向かと納得したのは、翌年度からハイパーレスキューの中に救急救命士だけの隊が2隊、もうけられることになる、と聞かされてからだ。どうやらおれは、そこの一期生として放り込まれるべく、日本に戻されたらしかった。  選抜試験は無事にパスした。これは、派遣中もずっと勉強、運動をしていた努力の賜物だ。派遣中も、六人部隊長のことを思い出すと胸がかきむしられる→レスキュー隊の勉強をする→想い出す→かきむしられる という地獄のループをなんとか訓練と運動でやり過ごし、必死に勉強した甲斐があった。時間を見つけてはロープワークを練習し、走り込み、腕立て伏せや腹筋を鍛えていた。筋トレなんか嫌いだけど、体を動かしていないと失恋の悲しみと文化の違いに、飲み込まれそうになったのだ。  受験一回目にして選抜試験をパスしたことでかなり自信をつけそうになったおれを、叩きのめしたのはやはり六人部隊長だった。筆記試験、体力試験、面接と全ての試験でほぼ満点を取ってパスしたかつての上司の話を人づてに聞くと、眉を寄せて口を結び、「さすがです!!」としか思えない。悔しい。でも好きだし、リスペクトが止まらない。  六人部隊長、あなたはどうしていつも六人部隊長なんですか。おれが失恋してもがき苦しんでいても、あなたのクオリティはまるで落ちることがない。それどころか、夢の中みたいに追いつけない速度で前に進んでしまう。おれが必死で走って追いつこうとしても、いつもその先へと。  大変だったのは特別救助技術研修、通称「地獄の25日」だ。訓練についていけなければ即脱落のサバイバルな状況で、精神、肉体ともに極限まで追い詰められる。正直おれも脱落してしまいそうになった。たった25日の間に、口内炎が5個できて、歯茎から血が止まらないという謎の病気にもなった。それでも耐え切れたのは、六人部隊長との約束、だけではなく、夢の中に出てくるあの人のおかげだった。彼の夢を見て目覚めると、おれはいつも少しだけ救われるのだ。  そして強く思う。  絶対、あなたを見つける。探し出す。  そして見つけたら――  走って、捕まえてみせる。 ***  実質的にレスキュー隊で仕事をしていたのは、数ヶ月のことだった。  なんと年があけてすぐの四月、人事異動でハイパーレスキュー隊に異動が決まったのだ。  救命特化隊ができるときいていたし、いずれは行くだろうとは思っていたが、あまりにも強引な手法じゃないだろうか。まだレスキュー技術だってモノになっていないのに、これ、本当に大丈夫なのか…?いくら人事は水物といえ……。  そんな驚きと、少しの不信を抱えて異動したおれを待ちかまえていたのは、さらなる驚きと運命の残酷さだ。  HRに配属されて上司になったのは――  かつての上司で振られた相手、六人部隊長だった!  朝、配属されて直立不動で挨拶したおれに、六人部隊長は言った。 「待っていたぞ。お前が信じた道が、おれの道と同じで嬉しい」  この人はまだ、こんなに短い言葉で、おれの心を奮い立たせることができる。それが怖くて、嬉しくて、動揺した。 *** 「……野。星野、星野!!」 「ファッ、……はい!!」  とびおきる。周囲を見渡して、ここが神奈川消防局、ハイパーレスキュー隊の拠点基地であることを思い出す。仮眠室の固くて狭いベッドと、安っぽく青白い蛍光灯の光と―― 「む、た、な………」  六人部隊長、なんでここにいるんですか。  仮眠の時間なのに、なんでおれの顔を至近距離で覗き込んでいるんですか。  そう言おうとしてつっかえてしまって言えないおれに、彼は目を細めて笑った。 「またお前が部下になって嬉しい、と伝え忘れていたから」 「あ、えへへ」  おれのあいまいな笑みに、隊長は不思議そうな顔をした。その顔をみて、イヤな予感がよぎる。  もしかしてこの人、おれに告白されて振ったこと忘れてるんじゃないか?  いやまてよ、覚えててここまでナチュラルに振る舞えるというのは、逆にすごいぞ。ふつう、振った相手と一緒に仕事をするなんて(しかも相手は男だ)イヤに決まっているのに。 「どうした?」 「や、なんか。六人部隊長って、そんなに笑う人だったかな、っておもって」 「うれしいんだろうな。正直浮かれていると思う」  天然人タラシっぷりは、相変わらずだ。わざとじゃないからよけいに手に負えない。もうなんか、めまいがしてきた。あーだめだ。診断書出してください。出勤不可、出勤不可です。  彼は目を細めて、おれの頭をくしゃっとかきまぜた。その仕草が一年前と全く変わっていなくて、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。  額にかかる短い黒髪、少し眠たげな、切れ長の目、精悍な鼻筋と口元。  気取らない男性的な色気は、以前よりも増している気がする。 「あの…なにしろレスキューからハイパーにくるまで時間がなかったので、ご迷惑おかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」  立ち上がって頭を下げると、六人部隊長がわずかに笑った気配がした。 「そうだな。まあそのあたりは折り込み済だろうから、多少動けなくてもはじめは気にしなくていい。救急救命士主体のハイパーレスキュー隊を2隊配置する構想、これはおれも目標だったことだが、できてすぐに引っ張ってもらえるとは正直おもってなかったし、予想外だった。だから、星野がいてかなり心強い」  ふたりなら、必ず出来ると信じている。こちらこそ、よろしく頼む。  そういって、六人部隊長もきれいに体を折って頭を下げる。あまりの信頼と低姿勢に、おそれ多くて、「そういうのやめてください」とわたわたしてしまった。 ***  仕事中は、不思議なほど六人部隊長を意識せずに済んだ。  というのも、慣れない仕事だし、出動のない日は一日訓練に明け暮れているから、あまり考える暇がないのだ。出動があったらあったで、ハイパーがでるほどの現場というとそれはもう大事故なので、かなり緊迫した状況のため私情を挟む余裕なんか全くない。  毎日があっという間にすぎた。  2、3の変化を自覚している以外は、全く順調に。 *** 「おい、成一、きいてんのか」  いつの間にかまたぼんやりしていた。  失恋したと親友の藤巻に伝えたら、それがあっという間に周囲に伝わり、同期、大学の同級生からやたらとコンパに誘われるようになった。今もその真っ最中で、女の子4人とおれたち4人は居酒屋の中で表面的な会話とぎらぎらしたやりとりを繰り返している。  おれは、そのテンションと雰囲気についていけなくて、目の前のお酒が飲めない女の子が使っているストローの、毛虫みたいにくしゃくしゃになった包装紙を、テーブルの上の水滴の上に置いて伸ばして遊んだり、彼氏がずっといないと言い張っている斜め前の女の子の、指輪の日焼け跡に注目したりしていた。いやいや、嘘でしょ、直近まで指輪つけてた跡だよそれは、と思いつつも言う勇気はない。だってあの子にそんなに興味がないし。なんで嘘をつくのか、には興味があるけど。 「星野くん、元気ないねー?」 「そいつふられて1年近くたつのにまだそんななんだよ。誰か慰めてやってよ~」  どっと巻き起こる笑い声。 「一年って……長くない?」  ひそひそとやりとりしている、藤巻の前に座った女子二人、聞こえてるから。  藤巻~おまえ~……人をネタに場を盛り上げてるな。まあいいけど。ネタにされるぐらいしか、お役に立てそうにないし。 「偶然だね、わたしもだよ」  目の前の女の子(名前は覚えてない)が苦笑しながら小声で言った。お酒の飲めない子だから、さっきからずっとオレンジジュースを飲んでいる。肩までの栗色の髪や白い指には手入れが行き届いていて、なんだか幸薄そうな顔立ちをした女の子だった。 「忘れたくていろいろやってみたけどだめだから、出会いにきてみたんだよね」 「うん、一緒」  おれの相づちに、女の子はにっこり笑った。笑うと、白い頬にかわいいえくぼができる。特別美人だとか、かわいいというわけじゃないけど、この子は男にもてるタイプだろうな、とぼんやり考えた。  周囲の喧噪をよそに、おれは隣にやってきたその女の子と、しんみりと語り合った。彼女は小さい声で、ささやくような話し方をした。 「でもさ、出会えば出会うほど、あの人じゃないなあって気付くだけなんだ」  濡れたような目で、おれをじっと見ながら彼女が言った。 「わかる。いい子だけど、あのひとじゃないんだよなあって思うよね。そんなの当たり前なのに」  手元のビールを空にすると、注文する前に女の子がベルを押して店員さんを呼び、ウーロン茶を頼んでくれた。 「ビールでいいのに」 「君、結構飲んでるよ。もうやめておいたら」  話し方に、ふと浮かんだ疑問を口にした。 「ねえ、もしかして君って年上なのかな」 「わたしは29歳だよ、君がどうなのか知らないけど」 「じゃあひとつ上だね。なんとなく、そうなのかなって思っただけ」  29歳、ひとつ上。そのフレーズが胸に残って、おれは眼を閉じた。そのまま机に突っ伏していると、細い指で頭をなでられた。冷たい指が、ほてった額にあてられて、気持ちいい。 「慰めてあげようか?」  耳元でささやかれた言葉に、すうっと酔いがさめる。  手のひらをそっとどけて、顔を上げた。彼女は酒を飲んでいないし、ふざけている風には見えなかった。 「それって、やらしい意味?」 「ほかにないでしょ」  体を起こして、周囲を伺う。みんな自分の獲物に夢中で、こちらをみている人は誰もいない。 「それって、失礼だと思うよ」 「…あなたに?」 「君に」  彼女は一瞬目を見開いて、ぱちぱちとまばたきをしてから、声をあげて笑った。 「君、かっこいいのに、まじめなんだねえ。もっと遊んでるのかと思った」  感心したような声に、おれも笑った。それから、名前は?ときくと、彼女はさっき言ったけど、といいながらも「相田実日子」と教えてくれた。 「遊びで女性は抱けないな、ほかのひとはどうかしらないけど」  だいたい、よく知らない人を裸にしてさわって、なにが楽しいんだろう。大半の男は欲望と心を切り離せるらしいけど、おれはそうじゃない。むしろ、好きであればあるほど、簡単に手なんか出せない。 「男の人を誘って、断られたのはじめて」  なんだか落ち込んでいるように見えて、おれは申し訳ない気持ちになった。 「ごめんね。君に魅力がないとか、好みじゃないとかそういうことじゃないんだよ。好きじゃないひとを、抱けないだけなんだ。少なくともおれは、そういうことできない」  テーブルに肘をついて、物珍しげにおれをじろじろと見てから、彼女が言った。 「そんな男性いるの」 「いるんだよ。ほら、たとえばさ、絶滅寸前の動物って、すごく少ないけど存在はしてるってことでしょ。それと一緒だよ」  自分でもなにを言っているのか、よく分からなくなってきた。  運ばれてきたウーロン茶を一息に飲みきり、ふう、とため息をつく。 「好きじゃなくても、いれたら気持ちがいいのが男でしょ?ちょっとした気分転換になると思うけど」 「そんな理由で抱かれて、君はうれしい?」  おれの質問に、彼女は沈黙した。それから少し考えて、「言われてみれば、いやかも」とつぶやく。 「もし君が」 「相田ね」 「相田さんが、そんな風に思って生きてきたのだとしたら、その責任の半分は男にあるよね」  会話はそこまでだった。お開きをしらせる藤巻の声がして、おれはのろのろと立ち上がった。  店をでる直前、相田さんがおれの携帯を奪って、無理矢理LINEのIDを交換してさっさと出て行った。もっと驚いたのは、ひとことも話していない斜め前に座っていた女の子も、おれの連絡先を聞きたがったことだ。別に芸能人でもなんでもないから、聞かれれば教えるけどこれは少し不思議でもあり、「やっぱり」という感じでもあった。  由紀駅近くの居酒屋をでて、歩いて自宅に向かいながら、2、3の変化のうちのひとつに確信を深めた。  そう、失恋してから、異常にもてる。  なぜだか全然分からないけど、女の子が次から次へとやってきて、連絡先を聞きだし、用もないのにメッセージを送ってきたり、飲みに誘ってきたりする。でもおれはそんなに彼女たちに興味がないし忙しいから、既読スルーしたり適当に返事を返しているうちにメッセージは入ってこなくなる。 「なんか色気とかでてるのかな……」  自分の顔をなでてみる。自宅についてから、鏡の前で自分の顔を観察してみたけど、特に変わったところは見あたらない。  生まれつきの茶色い髪と明るい眼になんら変化なし、と確認して、急にばかばかしくなってしまった。 「なにやってんだか」  夜のランニングをしてから寝支度をして布団に入る。  寝る前にカレンダーを確認すると、9月が終わり、10月にさしかかっていた。
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