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2(一保)
最後の「やり直し」を、後悔したことはない。
おれのモットーは、『Life is what you make it(人生は自分で創りだすもの)』だから。進むのも戻るのもその結果も、全部受け入れる。選択に間違いがあって目の前に壁が立ちはだかったとしても、突破しようと出来る限りあがいてみる。そうすれば、もうどうしようもないと思ったときも、わずかな光が見えてきたから。
会いたいヤツには、自分で会いに行く。それが難しいなら、会える状況を作り出してやる。覚えていないなら、知ってもらう。声をかけて、友達になって、それから――
「どこかでお会いしましたか?」
だよな。分かってた、大丈夫だ。
覚悟していたはずなのに、おれの心はボキッて音がしそうなぐらい折れてしまった。会いに行くって約束したのに。何度でも、好きだって伝えるって言ったし、あの気持ちに嘘はなかったのに。
自分は覚えているのに、相手は忘れている。これは、お互い忘れてしまうよりもはるかにつらい。物語なんかで見かけることがあったけれど、舐めていた。もう一回仲良くなればいーじゃん、と軽く考えていた。そんな生易しいものじゃない。控えめに言って、子どもみたいに泣きわめきたくなった。
また会えた喜びから急転直下の状況に、その場から逃げ出してしまったおれ。情けない。もし今おれが映画の主人公だったとしたら、観客はみんな溜息をつき、がっかりして、席を立ってしまったかもしれない。本当に申し訳ない。日本はただでさえ映画のチケットが高いというのに、こんなヘタレたクソなストーリーを見せてしまって…。
そんなときに、腕は掴まれた。とても強く。
「あなたの名前と連絡先、教えてください」
これが奇跡か。それともこの上ない幸運か。
世界人口が何十億人かしらないけど、その中から再び会って、声をかけられる確率。これを奇跡と呼ばずになんと呼ぶんだろう。幸運だとしたら、きっと一生分使い切った。
それぐらい驚いて、声が出てこないおれに、成一が焦れたように言った。
「おれは成一です。星野成一。28歳で仕事は由記市の救助隊員で、救急救命士で、B型で、特技はダンスと料理!…です……」
早口で言い切ろうとして、最後自信なさ気に声が小さくなったのは、おれの反応が気になったからだろう。心配そうに眉毛を下げているこの顔、柔らかい声。
変わっていない。
嬉しくなって、おれは笑ってしまった。顔をそらしてひとしきり笑ってから、背の高い成一を見上げて言った。
「村山一保。29、おれのほうがひとつ年上だな。仕事は……」
そこまで言って、以前成一が「あけすけで天真爛漫な笑顔」と言ってくれた、思い切り口を横に広げる笑顔で、元来た方向を指さす。
「これ以上話すなら、どっか飲みに行かない?立ち話もなんだし」
肩をすくめると、成一が目を丸くしてから、笑った。
「賛成です」
海から風が吹いてきて、背中を押されたような気がする。
さっきまでアウェイ感しかなかった横浜の街が、きらびやかで眩しくて素敵に見えてくるんだから、恋愛って不思議だ。放っておくとスキップしそうになる足を説得して、余裕ぶって歩く。なんていうか、音楽でも流してほしい気持ち。盛り上がるビッグバンドジャズなんかをBGMにして、手を繋いで走っちゃおうかなー!ってぐらいの気持ち。
ふたりで並んで、街中へと歩く。何飲みます?とおっとりとした口調で尋ねてくる成一に、「そうだな~ビール以外!」と答えて。
HUBがあったから、ここにしようと言ってすぐ店に入った。お互いにジントニックの大きいサイズを頼んで、勢いよく乾杯した。
好きな音楽の話や仕事の話、家族の話、その日の飲みは盛り上がった。「やっぱりあなたのこと、知ってる気がします」と言ってよろこんでいたお前。そうだろうとも。今日話した会話の大半は、したことがある内容だから。覚えているわけがないんだけど、これが「奇跡」だっていうなら納得できる。
……ところが、あとになってみればこれがピークだったのだ。喜びの。
時間は、平等にそして残酷に、ふたりの間に流れていた。
はっきり気付いたのは、連絡先を交換して3日後のことだった。
☆
「冴えねえ顔。なんだよ、電話ばっかみて」
もちろん勤務時間中に携帯を見たりしない(基本は)。おれが携帯を眺めていたのは、今が休憩時間だからで、連絡先を交換したばかりの気になる男がいるからで、そして――
「連絡がこねえんだろ。ほーらみろ、そうなると思ったぜ」
デスクにぐったりと頭をのせている俺の上から、千葉が誇らしげな声で水を差してくる。腹が立ったので、机の引きだしからクリップを取り出して渾身の力で頭めがけて投げつけてやった。いってえ!という悲鳴と、合田隊長の渋い「こら、事務用品を粗末にするな」という注意の声。隣で、里崎が笑っていた。何が面白いんだよてめえは…と腹が立ったので、一度しめた引き出しをもう一度あけて、さっきよりは小さい目玉クリップを取出し、千葉よりはやさしめに里崎にも投げつける。イタイっ、というベタな悲鳴が聞こえてきて溜飲を下げる。よっしゃ、命中。
「村山先輩になびかない女いるんすね。合コンじゃいつも1番人気なのに」
不思議そうに首を傾げる里崎。おれは大きい溜息をついて肘をつき、その上に頭をのせた。コンパは基本断っているんだけど、どうしても、人数合わせで、と頼みこまれたときだけ参加している。
「わかってねーなー。女性って勘がいいからさ、自分に興味なさそうな男には寄ってこねえんだよ。したがっておれはモテてない。安全だから、お前らに迫られないように盾にされてるだけ」
おれの率直な物言いに、合田隊長が吹き出した。こいつらには一度はっきり言ってやったほうがいいんだよ、ぎらついた目で言いよっても相手にはバレてるってな。
「キッツイな相変わらず!!」
千葉が呆れ声で言って、里崎はわざとらしく唇を前に突き出した。かわいくねえよ。
「その気になればすぐ彼女できそうなのに。前に彼女いたのっていつです?」
話が長くなると思ったのか、千葉が椅子をもってきて、おれと里崎の間に割って入ってきた。書類を読んでいる合田隊長も耳をすましているような気配があるが、この際なので、はっきり言ってやった。
「いねーよ。おれ付き合った事ねーもん」
今は。つまり、このやり直した世界では。
さらりと暴露したおれの前で、千葉と里崎の時間が止まった。言葉のとおり、笑った顔のまま硬直してから、勢いよく叫んだ。
「え、ええええ!?!……てことは……ど、ど、童貞なんですか?!その顔で!!?」
「そうなるな」
セックスをした記憶なら、脳に残っている。
けれど、身体は過去に戻っているから、誰にも触られていないし、触っていない。童貞かと問われればそうなる。ついでにいうと処女でもあるが、これは言わなかった。誰も聴きたくないだろうし。うん?前も誰かに挿入したことはないから、非処女童貞になるのだろうか。まあどうでもいい、そんなことは。
千葉が飲んでいたコーヒーを吹き出し、合田隊長がガタンと音をたてて立ち上がった。一応、周囲に人がいないことは確認済だ。いまは当直の最中で、おれたちの隊以外この基地にいない。本来仮眠にあてるべきこの時間(真夜中の1時)に全員起きてるのは、さっき出動から帰ってきたばかりだから。そして、海が荒れていて今ねてもすぐ叩き起こされると分かっているから。
「一保、お、おまえ、マジで誰とも付き合ったことねーの…?」
血走った目で、千葉が叫んだ。肩をつかむなよ、近いんだよ。
「はあ。今回は」
「今回?」
「いや、こっちのはなし。ねーな」
至近距離で男ふたりからまじまじと顔を眺められて、「マジかよ…」「29歳童貞」「大丈夫なのか」「一体なんでまた」と最後は悲壮ささえ漂う顔で問い詰められる。
「なんでって言われてもなあ…そんな、しないといけねえもん?付き合ったりヤったりって」
「いけないっていうか……焦りません?とりあえず手近なところで童貞捨てとこ、ってならなかったんですか?」
里崎の質問に、千葉が片眉をあげて「おいおい、いつもおれを最低って言ってるお前も、なかなかのもんじゃねーか」と揶揄する。たしかに。
「クソだクソだと思ってたけど、やっぱお前ってゲスの極みだな、里崎。……ん~~~、おれ好きな奴がいて、でもそいつとは付き合えなくて片思いだったから、そのままずるずるときた感じ、かな」
「ええーーー!信じられな……信じられないっすねーーー!!」
大声で叫ぶ里崎。いや別に性欲がないわけじゃない。状況として付き合えなかったんだから仕方ないじゃないか。
「だってそういうのって好きな人としたいじゃん」
「なにそれ可愛い。村山先輩って結構ロマンチストだったんすね~」
茶化してきた里崎の額を定規でピシリと叩いてやった。痛みで悶絶しているが、先輩をからかうとはそういうことだ。痛みを知れ。
「ムラムラしたときどうすんの」
千葉の質問だ。
「自分でする」
当たり前の返事を返すと、千葉は眉をよせて俯いた。
「マジかよ…いまおれムラムラしたわ、なんとかしてくんない?」
「蹴っ飛ばすぞ」
こういったやり取りはいつものことなので、里崎は気味悪がったりせずにゲラゲラ笑っていた。おい、冗談だと思ってるだろ……半分本気なんだぞ、これ。止めろよ。
千葉が腰に腕を回してこようとしたところで、合田隊長が襟首をつかんで投げ捨ててくれた。さすが隊長、おれのヒーロー。
「隊長、たいへんです。村山さんが童貞だということが判明しました、コンパしなきゃ」
合田隊長がこちらをちらっとみて、手を叩いた。
「くだらないこと言ってないで、少し休め。また出動が入ったとき、つらいのはお前らだぞ」
ナイス。隊長、さすがです。
おらおら、寝ろよ、とはやしたててうるさいやつらを仮眠室へと追い立てる。まだからかおうとする後輩には「はいはい童貞童貞」と開き直り、お前の童貞はどうにもならないけど処女ならもらってやるぜ、と囁きかけてくる同期のケツを蹴っ飛ばし、無理やり寝かしつけた。おれはお前らの母ちゃんじゃねえんだよ、さっさと寝ろ。
デスクに戻って携帯をもう一回指紋認証。はい、着信もメールもなし、ありがとうございました画面叩き割ってやろうかな…。
合田隊長がニヤニヤしながらコーヒーを持ってきてくれた。この人には、おれがゲイである旨は伝えてあって、合田隊長も同じだ、と打ち明けてくれた。お互いにオープンにはしない約束だけど、恋愛の悩みを相談するのはもっぱらお互いである。この人ほど、悩みや秘密を守ってくれるひとはいないだろう。そういう意味では、誰よりも信頼している。 一番信頼しているやつには、まだ何も言えないから。友達になるだけで精いっぱいだ。それだって、なかなか――
「来ないのか、連絡が」
「そうですね」
「自分からすればいい」
「しましたよ。『飲みに行こうぜ』」
「返事が来ない?」
「既読スルーってやつです」
そうなのだ。既読はすぐについたのに、返事がない。くそ、いまのメッセージアプリは読んだかどうかまで分かるのが嫌だ。何時何分に読んでいるか、はっきり分かっちまうのが最悪だ。
もしかして、一緒に飲んだのが楽しくなかったんだろうか。違うなら、どうして返事くれないんだよ、と考え込んでしまうし、そういう自分が嫌になる。
「さっきのは、言わなくてよかったんじゃないか?」
向かいの席で、合田隊長が苦笑している。少し考えてから、さっきの「童貞宣言」のことを言われているのだと気づいて、肩をすくめた。
「嘘つくの嫌だったんで。架空の彼女の話作って話すほど、空しいことはないでしょ?」
「それはまあ、そうだな」
おまえのそういう潔い部分は、尊敬に値するな、と合田隊長が言ってくれて、この人の口から(たとえ童貞宣言のことであっても)尊敬なんて言葉が投げられると嬉しくて舞い上がってしまう。顔よし頭よし仕事抜群、身体にいたってはアスリート並の合田隊長は、おれの憧れの人だ。
「そういうとき、違うことに没頭していれば、忘れた頃に好転したりするぞ」
「つまり仕事に没頭しろってことですね?」
「村山は物分りがいい」
言われなくても、仕事は大大大好きだ。ワーカホリック一保と呼んでくれ。
眠くない頭を眠らせるべく、おれもおとなしく仮眠室に向かった。歯を磨いてから、ごろりと横になる。
このまま、どうか海難が発生せずに終わりますように、と祈りながら。
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