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4(一保)
テレビに出てくれないか、と基地長じきじきに話があったとき、おれは思った。
とうとうおれのカッコよさが全国規模になってしまったのか……と。
ローカル番組なら既に『突撃!となりのイケメン』という深夜枠の番組でデビューしていたが(やり直す前だけど)、まさか天下のMHKにお願いされちゃうとは。
そして悩んだ。きっとすごく人気が出てしまうが、どれほど人気が出たとて、おれは女の子に興味がないから仕事の差支えになるだけだ。
自分のキメ台詞が黒背景に白抜きされ、スガシカオの歌と一緒にエンディングを迎えるところまで想像していたら、「ほんとは合田くんに頼んだんだけど断られちゃって」と軽いノリの言葉が聴こえてきて頭が冷えた。えっ、おれは代打だったの?とがっかりしそうになって、考えを改める。そりゃあそうだ。合田隊長みたいに、ものすごくモテて転勤先全国津々浦々で浮名を流している人がテレビに個人情報を晒すなんて危険だ。
「あの…合田隊として密着取材されるんじゃないんですか?」
数年前に一度、特殊救難隊は『海猿』の人気によってMHKで特集されたことがあって、そのときの縁で今回の番組出演が決まったらしい。
「そのつもりだったんだけど、合田くんが頑なに自分への密着取材、拒否してるからなあ~。まあ彼の場合はおうちの事情だから、仕方がないんだけどね」
さらりとそれだけ言って、基地長はおだやかな顔でおれに向き直った。合田隊長が一体何と言って説明したのか、少し気になったが何も言わずに基地長を見返す。
「今回は、キミと千葉君のバディを密着取材させるつもりなんだ。合田くんもチームの一員として少し映るぐらいなら構わないってさ。君らはハンサムでテレビ映りもいいし…頼むよ」
いまどきなかなか聞かないハンサムという言葉に頬をゆるめたところで、ドアがノックされて千葉が入ってきた。おれの隣に立った千葉は、直立不動で立ち、「何か御用でしょうか?」ときびきびした声で尋ねた。
「ん。いまムラちゃんにも説明してたんだけどね。テレビ出て欲しいの。しばらく取材班がきみらバディに密着しまーす」
決定事項として告げられた内容に、千葉がぎょっと目を見開く。それからおれを振り返ったけれど、おれは黙って首を振った。公安関係の公務員社会は上下関係がとても厳しく、千葉もそれは骨身にしみて理解している。
つまり、上司の命令は絶対、である。
「……救助業務に差し支えないならいいのですが」
千葉の言葉に、愚問だとばかりに基地長が目を細めた。
「そこのところは安心してよ。きつーく言ってきかせるからさ」
じゃよろしく~。そういって基地長室から追い出され、ふたりで顔を見合わせた。『仕事の流儀』に出られるなんてとても光栄な話だと思うが、それに伴って発生する、普段通りではない業務の状態が面倒だなと考えた。
「なんか、うれしいんだけどめんどくさいな」
千葉の苦笑に、おれもはは、と力無く笑った。
「仕事を知ってもらうことは大切だし、取材もさ、認められてるんだなって思うと嬉しいけどな」
頭の後ろで腕を組み、千葉がおれを見下ろす。仕事と関係のない話をされそうな気がして、おれはさっさと事務室内へと歩いていく。オレンジの作業着を着たまま、自分のデスクに腰掛けると、正面に座っている合田隊長が、申し訳なさそうな顔をして「悪いな」と謝ってきた。
「いえ、いいんです」
「関係はほとんど清算したんだが、少し映るぐらいならともかく、密着取材されるのは困るんだ」
周囲に人がいないことを確認してから、隊長は小さい声でつぶやいた。驚き、とっさに顔をのぞきこんでしまう。
「清算って、あの全国津々浦々にいた恋人たちのことですか?」
「ああ。あとくされない二人に絞った」
「何を持って精算したと言ったのか……頭痛がしてきますね」
ひそひそと話し合って、笑い合う。間近でみた合田隊長の眼は、相変わらず強くて底光りしていて、野性味と知性を宿していてとても魅力的だ。
「だから、お前が今頑張っている恋愛がうまくいかなかったときは、いつでも声をかけてくれ。おれが引き受けよう」
「あいにく、おれは独占欲が強い方で。恋人を誰かと共有するなんて絶対無理です」
「お前がおれのものになるなら、ほかを全部切ってもいい」
冗談にしても真顔で言うから笑ってしまう。後ろから千葉が歩いてきたのを意識して、おれは「考えておきます」と返してパソコンを開いた。
「合田隊長って私生活が謎だよな」
勤務明け、千葉と一緒に宿舎に向かっていると(こいつも同じ宿舎に住んでいる)、ひとりごとのように千葉が言った。
「付き合ってる人の話も、土日何してるかって話も、一切しないし」
千葉は合田隊長との関係を「尊敬」「信頼」だと思っているらしいが、はたから見ていると強烈な憧れに近い。他人のことで熱くなることなんて絶対にないのが千葉だと思っていたが、一度ほかの隊長が合田隊長を批判していたとき、殴るんじゃないかと思うような勢いでくってかかっているのをみたことがある。
「おまえめちゃくちゃ仲いいだろ」
「信頼はされてるけど仲がいいわけじゃないな。おれが一方的に懐いてる感じで……あきらかに合田隊長はお前のほうが好きだよ」
憂鬱そうな声と恨みがましい視線に吹き出してしまった。こいつはひねくれているだけじゃなくて、ときおりこういう一途でかわいいところがあるから憎めない。
「おれも合田隊長大好きだし尊敬してるけど、そういう話きいたことねえなあ。いないんじゃね、たぶん」
「いるだろ。30人ぐらいいたって不思議じゃないだろ、あの顔、あの体、あの性格だぞ」
「誰でも、人には見せない面のひとつやふたつあるさ」
おれの言葉に、千葉は不満げに唇を突き出した。
最寄駅を降りると、くたびれたサラリーマンや出勤前のOLが、足早に通り過ぎていく。少しずつ冬へと近づいていく風の温度。こみあげてきたあくびは、安堵のしるしだ。今日も、誰も怪我をせずに、仕事を全うできた。朝の光は幸福そのものだ。
「一保は、どうなんだ、あいつと」
言いにくそうにつっかえながら、千葉が言った。おそらく成一のことだろう。男同士なんて気持ち悪いと思われているのかもしれない。聞きたくないなら聞かなければいいのに。
「別に。友達になったぐらい」
あの日言われた言葉を思い出すと、自然と眉は曇った。おれの表情に、千葉がため息まじりに言う。
「やめろって言っても、聞かねーんだろうなあ、お前は」
「止められたぐらいで止まるなら、初めっから好きになんかならない」
自分でもハッとするほど、決意がにじんだ声だった。
「―――おれは単に、お前が傷つくことにならなきゃいいなって、そんだけだよ」
ぶっきらぼうな言い方ではあったが、心がこもっていて、おれは胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ありがとな、創佑」
宿舎の郵便受けの前で、立ち止まって笑った。宅配ボックスに、いつものものが届いていた。
「あ、広島の同期からレモン届いてる。なあ、お前にも――」
少し分けてやろうか、と声をかけようとしたら、もうそこに千葉はいなかった。さっさと歩いて自分の部屋へ向かう後姿を眺めてから、段ボール箱いっぱいに詰まったレモンを持ち上げて、重い体を引きずって自宅に向かった。
部屋についてからすぐ、遮光カーテンを開いて部屋の中を光でいっぱいにした。お湯を沸かしてネルドリップでコーヒーを淹れ、ソファの肘掛に軽く腰掛けて、雲ひとつない秋空をぼんやり眺めた。部屋の片隅に置いた段ボールの中から香る、グリーンレモンの爽やかな香り。ステレオの電源を入れると、フジファブリックが『若者のすべて』を歌っていた。
スマートフォンの画面をたっぷり10秒間眺めてから、メッセージを送ろうと文章を指で入力してみた。
『レモン箱いっぱいあるんだけど、いる?』
入れてから思った。おれは田舎の母ちゃんかよ。誰がこんな色気もくそもないメッセージに食いつくんだよ。
送信ボタンを押さずに下書きとして保存してから、携帯電話をポイとラグの上に投げる。飲み終わったマグカップを台所に下げてから、シャワーを浴びてベッドに横になる。眠くない。でも、起きていたくない。予定のない明けの日、こんなのは長い間たくさんやり過ごしてきたはずなのに、成一と再会してからどう過ごしてきたのかまるで思い出せない。
意識が覚醒していると、「会いたい」ばっかり考えてしまう。会いたいなら会いに行けばいいのに、とはやりの歌を聴きながらひとりごちていたけれど、会いに行けないから悩むのだ。こんな簡単なことを、30手前までわからなかったなんて恥ずかしい。
『おれに誰かを重ねないで』――成一はたしかそう言った。
あれって、どういう意味なんだろう?
携帯電話はあれから一度も鳴らない。もう二週間になる。
手のひらで顔を覆い隠し、そのまま目を閉じた。疲れているせいで、望まなくても眠気はスルスルと降りてきておれをすっぽりと包んでしまった。
目がさめると、すでに時間は正午を過ぎていた。テレビをつけ、何か作ろうと冷蔵庫をあける。卵とベーコンとしめじがあったので、簡単なオムレツとサラダを作って、ローテーブルの前に座った。テレビでは、若い音楽家が突然失踪して、居所がわからなくなった、と報じていた。
ふーん、とさしたる関心もなく画面を見ながらオムレツを口に運ぶ。画面が切り替わって、音楽家の顔写真が映し出された時、おれは手に持っていたスプーンを皿の上に真っ逆さまに落としてしまった。
「……嘘だろ、こないだテレビに出てたじゃん」
そこに映っていたのは、千早と一緒にテレビに出ていた若きヴァイオリニスト―――なんでも、最年少でチャイコフスキーコンクールで優勝した――『綿谷いつか』だ。
整っているが、どこか仄暗い瞳が印象的だ。19とは思えないほど、情感に満ちた、それでいて湿っぽくない演奏をする青年。
彼は、宿泊していたホテルのテーブルに貸与されていたストラトを置き、「もう嘘はつけないので消えます。さようなら」という置き手紙を残して、忽然と姿を消したのだという。
彼の特殊な生育環境や、置き手紙のガタガタの文字が、マスコミの格好のエサとなって好き放題報じられるのが辛くて、千切るようにテレビの電源を落とす。
ニュース番組の最後に流れていた、『ヴォカリーズ』を千早とともに演奏する姿を見て、同じ番組を見た合田隊長の言葉を思い出した。
「まだ19の子供とは思えない、深みのある演奏だと思った。特に、哀しみの感情表現が……」
食べ終わった器を洗い終えてから、放り出したままだった携帯電話を拾い上げ、着信履歴を確認した。成一からの返事はなかったが、なっちゃんから2回、電話が入っていた。
「……もしもし、どうしたの」
『こんにちは一保さん。ニュース、見た?』
「ああ、今の。ヴァイオリニストが失踪したってやつ?」
『そのことで話したいことがあるんだ。今日、出てこられない?』
夜8時に、コンラッド東京のジャズラウンジで会う約束をして、なっちゃんの電話は切れた。あいた窓から吹き込んでくる風が肌寒くて、手近に置いてあったカーディガンを羽織り、窓を閉める。ラジオから、BECKの『Blue Moon』がきこえた。
☆
JR根岸線だと新橋まで乗り換えなしで出られる。
場所が場所なので、ジャケットとチノパンに革靴を履いて、家を出た。40分かからずに新橋について、そこから汐留駅近くのコンラッドまで急ぎ足で歩く。夜の汐留は人通りが少なく、高いビルに切り取られた夜空には、あかるい満月が浮かんでいた。
暗い歩道橋の上を歩きながら、おれは成一のことを考えた。そして不意に、「重ねる」という言葉の意味に思い当たって、立ち止まって空を仰いだ。
一から好きになってほしいと言いながら、おれは期待していたのだ。
彼がおれとの記憶をいつか、思い出すのではないかと。なにか覚えているのではないか、と。そんなことはありえないのに。
髪に花をさしてくれた夜、はじめてキスをしたこと。一緒に海辺を歩いたこと。指がやさしくおれに触れ、肌の温度を分け合ったこと。すべて。忘れられず、思い出にもできず、おれはまだ過去に立ち止まったままだった。
あのときの成一なら、きっとこう言ったな。そんな風に、いまの成一と一緒にいながら何度もやり直す前に思いをはせていた。泡のように消えてしまった過去と決別することができずに、相手に自分の思う反応を求めていた。
「そりゃあ、あいたくないよな、こんなやつ」
涙がこみあげてきて、流れ落ちる前に腕で拭った。
さみしい。
つらい。
自分で選んだ道なのに、苦しくて仕方がない。
また会えるだけで幸せだとおもえたら良かったのに、おれはそれ以上を求めずにはいられない。
「しばらく成一に連絡するのやめよう」
必ず見つけ出すと約束した。
でも、今の彼にも生活がある。おれと出会わずに生きてきた生活や、これから先の人生がある。自分の気持ちばかり優先して、少し先走り過ぎていた。
長いためいきをついてから、顔を上げて歩きだす。いまは、目の前のことを精一杯やろうと思った。大切にできるひとを大切にして、抱きしめられるものを抱きしめて生きていく。無理に手づかみにしようとしても、すり抜けていくだけだ。
「一保さん、こっちだよ」
ラウンジに入ると、奥まったテーブル席でなっちゃんが手を上げて呼び寄せてくれた。キャンドルのオレンジ色の明かりと、ジャズの生演奏が流れる洗練された空間は、カップルばかりで埋め尽くされていた。
小さなテーブルを挟んだ4人席に座り、ウェイターにジントニックを注文してから、目の前に座っている見知らぬ青年に気が付いた。ほっそりとした、おれよりも頭一つぶん背が低い彼は、黒いキャップを目深にかぶり、俯いたままジンジャーエールを飲んでいる。
「…このひとは」
問いかけようとしたおれを制して、隣に座っているなっちゃんがおもむろに口をひらいた。
「実は、彼の夢について一保さんにいくつか聴きたいことがあるんだ」
まだ少年のような体型をしている彼は、デザインの入った不思議なTシャツと、タイトな黒いジーンズを着ていた。ほっそりとした長い足は足首のところで組まれ、俯いた頬には長めの前髪が落ちている。
「前に説明したよね。僕は夢の研究をしていると。彼は、こどものころから同じ夢を何度もみたらしい。それは決まって、自分が死ぬ夢だった」
言葉を切ったなっちゃんの後を引き継いで、青年が続けた。
「そう、トラックに撥ねられる夢。身体がばらばらになって、それでも、誰かのことばっか心配してる変な夢。いままで覚えているだけで、300回はみた」
暗い声の内容に、おれはまばたきも忘れて彼をみつめた。彼は、緩慢なうごきでキャップを脱ぎ、億劫そうにこちらをみた。薄暗いせいで顔立ちははっきりとは分からないが、おれは目の前の細い腕をつかんでしまった。
「まさか、おまえ。航太郎なのか」
「ちょっと、痛いよ。離してくれる」
冴え冴えとした冷たい眼ににらみつけられ、手のひらは力をなくした。掴んだはずの腕は、つめたく冷え切っていた。生きている人間とは思えないぐらいに。
「そうなんだ。僕の夢に出てくる『航太郎』くんと、彼の夢は、おどろくほど一致している」
テーブルに置いてあったキャンドルを手に取り、青年に向ける。照らし出された顔に、勢いよくなっちゃんの方を振り返った。
「彼は今話題になっている、『綿矢いつか』だよ。数年前から僕の研究の協力者だった」
小さな顔をこちらに向けてから、いつかはふたたび帽子をかぶって俯いてしまう。
「一保さんは、生まれ変わりって信じる?」
静かな声に、おれは黙ってなっちゃんをみつめた。
「僕は、信じる。僕は学者のはしくれだけど……すべてが理論や科学で説明できるわけじゃないことを、骨身にしみて感じるから」
なっちゃんの真摯な言葉に、綿谷いつかが鼻で笑った気配がして眉を寄せた。こいつのことを詳しく知っているわけではない。けれど不快な人間だ、ということが、この数分で分かった。ここが静かなバーじゃなくて、彼がなっちゃんの知り合いじゃなければ、殴っていたかもしれない。
「バカげてる」
肩をすくめて、綿谷いつかが顔を上へ向けた。年上を敬う態度がまるでにないこの無礼なガキに対して、おれは腰を浮かせかけたけれど、なっちゃんがやさしい顔で首を振ったので座りなおした。
こいつは絶対に航太郎の生まれ変わりなんかじゃない。航太郎は、思いやりのある、どちらかといえば繊細なやさしい子だった。こんな不遜な態度を、それも初対面の人間の前でみせるような人間じゃない。断じて違う。
演奏が終わって静かになったのは一瞬で、急に拍手が店の中を盛り上げはじめた。おれはその音に振り返り、中心部分に招かれたゲストミュージシャンの顔をみて、「あっ」と声をあげてしまった。
「千早!!」
叫んだのはおれじゃなくて、綿谷いつかだ。
暗い、消えかけのろうそくのような顔が、明るくてかわいいものに変わって、綿谷いつかがステージの方へと視線を移す。
目がきらきらして、頬に赤みすら差しているその様子は、年相応にかわいげがあった。
「うわ、ほんとだ。生野千早だ」
めずらしくなっちゃんも身を乗り出してステージを眺めている。カラーシャツにネクタイ、それにベストとスラックスという姿で、千早はこの店のオーナーと知り合いで、多大なる借りがあるから依頼を断ることができなかった、といって笑っていた。
挨拶もそこそこに、突然のうれしいハプニングで盛り上がる客たちを沈めてから、千早がピアノを弾きはじめた。ロマンティックで美しいメロディに、甘く掠れたやわらかい声がのって、「ミスティ」を歌いだす。
「今月は二度も生野千早の演奏がきけて、ラッキーだな」
ひとりごとのつもりだったが、目の前でうっとりと聴き入っていた綿谷いつかが、急に低い声で「は?どういうこと」と絡んできた。
「友達が、赤れんがのとこでやってたライブにつれてってくれたんだよ」
くちびるをむっと引きむすんで、綿谷は言った。
「あんたなんかに、生野さんの演奏のすばらしさが分かってたまるか」
「なんだよ、お前もファンなの?」
「ファンなんてレベルの低いものじゃない。僕は、生野さんの演奏に魂の一部が救われたんだ」
それきり、綿谷いつかは一言も話さず黙り込んでしまったが、おれは感心していた。すごいじゃないか、と思った。ここまで人を魅了し、「救われた」とまで言わせる千早の才能に、あらためて自分とは違う世界の人間なんだな、とため息が出た。
「で、質問って」
何も話さなくなった綿谷を放って、なっちゃんに問いかける。彼はぼんやりとした顔で千早の音に沈んでいたが、おれの声にはっとした顔をして「そう、ごめんごめん」と話を戻した。
曲が変わって、小沢健二の「ラブリー」を千早が、やさしく、甘く、とびきりキュートに歌った。オフビートにアレンジされたその曲は、おれの大好きな曲だ。ピアノのアドリブはかっこよくて、きいているだけで体がぽかぽかと暖かくなってくる。
「なんていうか、……アーティストって魂をけずって、才能のかけらを僕らにばらまいてくれてるような気がするね」
なっちゃんの言葉に、綿谷いつかが暗い声でつぶやいた。
「気がするんじゃなくて、そうなんだよ。みんなじゃない、つまらない音をまき散らす奴もいる、でもあのひとは、生野さんは本当に削ってる。削って、ばらまいて、僕らに分けてくれてる。少しでも今よりみんなが良くなりますようにって、何も否定せず押しつけたりせず、ただ与えてくれる」
僕には、できない。僕はもう、何も削るものがない。底の底にいる。
綿谷いつかは、美少女のような顔をゆがめてそう言い、目を閉じてイスにもたれた。
「……航太郎くんは、一保さんにとってどういう存在だったの?」
綿谷に悲しげな視線を向けたまま、なっちゃんが問いかけた。
「それは、……きっと、言っても信じないよ。それに、すごく長くなる」
「いいよ。僕、今日このホテルとってるから。泊まっていってくれてかまわない」
なっちゃんのことばにすべてを話してしまったのはきっと心細かったからだと思う。いまこの世界でおれが、おれだけが異邦人のようで、誰かに知っていてほしかった。なくなった世界で起こったことや、おれがやり直した理由や、愛した人や愛してくれた人のことを、覚えていてほしかった。
バーで半分、なっちゃんの部屋で半分、おれたちはコーヒーを飲みながら朝まで話をした。綿谷は途中でベッドに横になり眠ってしまったけれど、なっちゃんはすべての話を、疑ったりさえぎったりすることなく聞き取り、メモをとり、つっかえてはなせなくなったときは手を握って励ましてくれた。やがて朝が来て、部屋の中を明るい光が満たしたとき、おれたちは固く抱き合ってお互いに礼を言った。話してくれてありがとう、きいてくれてありがとう、と。
白い光の中で、綿谷いつかが死んだように眠っていた。
精巧な人形のような顔は、色が白くて生きているのか死んでいるのか分からない。
おれはその中に、航太郎の面影を探そうとした。孤独で美しい横顔にはその要素が見え隠れしていたけれど、やはり彼は綿谷いつかで、双子の弟、村山航太郎ではない。
――たとえ生まれ変わりなのだとしても、やはり航太郎そのものではないのだろう。
小さく丸くなって眠る綿谷いつかの額にかかる髪をかきわけてやってから、押しやられた掛け布団で体をくるんでやった。こちらが不安になるほど、細くて薄い体をした青年は、難しい顔をして眠り続けていた。
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