5(一保)

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5(一保)

 案内された家は、おれが知っている、かつての成一の家から少し離れた、古い町屋の一角だった。引き戸をあけて入る前に小さな庭があって、なにかの木が葉を茂らせているのを横目に、「おじゃまします」と上がり込む。 「先に入ってて」  成一は庭の片隅にバイクを置き、植物に水をやってから中に入ってきた。キッチンやトイレ、風呂などの水回りはリノベーションされていてきれいだ。いま流行りの「町屋カフェ」なんかで使えそうな家だった。  居間に入って、その光景におれはぼんやりとその場に立ち尽くした。丸いちゃぶ台と、よく使い込まれた茶色い革のソファが、センスのいいキリムの絨毯の上に置かれている。ちゃぶ台の上には、青い花が飾られているのが見える。何の花かまでは、ここからは分からないけれど。  テレビボードはなくて、低い箪笥がいくつか並べられている上に、テレビがのっかっている。テレビの両側に、JBLのスピーカーが置いてある。なつかしい。そういえば、「清水の舞台から飛び降りる気持ちで買った」のだと、前に聴いたことがあった。  部屋のいたるところに観葉植物。どのグリーンも、手入れが行き届いているのか元気そうに葉を伸ばしている。  板間になっているキッチンのほかには、居間と寝室らしき部屋の2部屋で、どちらも畳がしかれていた。 「縁側があるのか……」  寝室にはベッドが置かれていて、その奥には、またしても小さな庭と縁側がある。その風景が、以前おれが住んでいた古い家屋とよく似ていた。 「いいでしょう?家を探してるときここにきて、すぐ決めちゃった」  夢にでてきた場所と似てるんだよね、と成一は言った。  寝室らしき縁側につながる部屋には、まだ引越屋の段ボールが箱のままいくつか置かれている。  洗面台やトイレの場所を教えてもらって、手を洗ってからソファに腰掛けた。花は、リンドウだった。成一がおれの髪にさしてくれた、あの花だ。胸が苦しくなったから、そこから目をそらした。  テレビをつけるかどうかきかれたが、観たい番組もないので断って、「レコードかけていい?」と断りを入れる。好きなやつ流していいよ、とキッチンから了承をえられたので、レコードケース3つ分いっぱいにつまったレコードを指で物色してから、Arctic Monkeysをみつけてターンテーブルにのっける。久しぶりに聴いたけど、相変わらずギターの音も声もかっこいい。 「When the Sun Goes Downか。このころのこいつらめちゃくちゃ好き」  10年前の楽曲だなんて思えない、とおれが言って、成一が用意してくれた料理を居間のテーブルに運ぶ。なめこと豆腐の赤出汁、さばの味噌煮、ほうれん草のしろあえと五目ごはん。器まできれいで凝っていて、成一がいかに日常のひとつひとつを大切にしているかがわかる。たぶん、おれが来たから特別な料理をつくったわけじゃない(なにしろおれが会いたいと言ったのは突然だった)、普段からこうなのだ。ごはんに手を抜かないことは、いきることに手を抜かないことだと思う。食べることは体をつくること、いたわることだ。おれたちのように体を使う仕事ならなおさら。 「いただきます」 「はい、いただきます」  テーブルの前に座って手を合わせ、ゆっくりかんで食べた。どのおかずもびっくりするほどおいしい。  会わない間に腕を上げたな、成一め。和食はおれのほうが得意だったはずなのに。 「よく食べるねえ、一保さんは」  感心したような顔で、成一が言った。 「人生のうち、食事をできる回数は決まってるからな。一度たりとも粗末にしたくねえし全部うまいものを腹一杯食いたい」 「決意表明みたい!」 「まあ似たようなもんだよな」  おれの言葉に、成一が笑った。健やかだね、あなたは。と眼を細める様子をみていると、どっちがだよ、と返したくなる。 「おいしかった、ごちそうさま」  お礼を言って食器を下げる。洗おうとしたら、あとで食洗機にいれるからいいよ、と断られた。とりあえず水で流して汚れだけを落としてから、シンクの中に積み重ねておく。  映画みよっか、と成一に誘われてソファに座る。成一は暖かいお茶を入れてからカーテンを閉めた。寒いといけないから、と手渡されたブランケットは、以前プレゼントされたものと同じで、泣きそうになったけどなんとかこらえる。  ふたりで並んでソファにすわって、1枚のブランケットを分け合って使う。画面の中では、いまどきの草食っぽい若者トムが、美しくてキュートでサブカルをこじらせているサマーと出会い、みるみるうちにのめり込んでいく。  ときどき笑って眼をあわせたり、顎に手をあてて考え込んだり、なにか思い当たることでもあるのか、情けない顔で「ああ~」と声をあげたりして、映画よりも成一をみているほうが楽しい。 「セックスまでしたのに友達なんてわけあるかよ」 と珍しく荒い口調で悪態をつく様もかわいいし、おれは終始たのしい気持ちで映画をみていた。  ひとつの恋がはじまり、つながって、終わりを迎える。ただそれだけのことなのに、いつの間にか泣き虫でロマンチストで妄想癖のある押しの弱いトムを心から応援して、サマーのことを史上最強のサブカルクソビッチ!!と罵倒したい気持ちになる。おれはこの映画が大好きだった。 「うそだろ、なんて女だ」  ラストが迫り、とうとう成一が頭を抱えてしまった。最後はほんの少しだけ希望……希望だといいけど、のようなものがみえて、物語は終わる。  エンドロールが流れはじめ、成一は放心した顔でこちらを振り返って言った。 「なんか、想像してたのと違ってた。結構、クルね、これ」  情けない顔がかわいそうで、おれは成一の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。元気出せよ、って意味で。 「おもしろかった」 「だろ。映像が美しくて、音楽はかっこよくて、トムはかわいいしサマーはあっぱれなクソビッチだろ」 「クソビッチって、ひどいな」  両手でマグカップをもったまま、成一が吹き出した。 「いや、分かってんだよ。惚れるあまりジョセフが……じゃなかった、トムが盲目になって、サマーを好きな自分に夢中になって、相手のことや考えに思い至らなくなんのが敗因なんだろ。別にサマーはビッチじゃなくて自分に正直なだけだ、惚れたもんが負けなんだからしかたねえ……でもやっぱ腹が立つ」  誰かの彼女にはなりたくない、運命の相手なんているわけない、愛なんて信じてない。そういって、暗に(いわゆるセフレにならなってあげる)とちらつかせるサマーと、納得していないくせに、サマーと一緒にいたいがために同意してしまうトム。ところが物語後半になると、サマーはすんなり別の男と結婚してしまう。  かつての千葉とおれのような関係。だからこそ、この映画に感情移入してしまうのだろう。  正直、千葉との恋愛中はこの映画を見返すことができなかった。棚の一番奥にしまいこんで、眼にしないように隠していた。  サマーの口調を真似して、おれが言った。 「私は、真剣なものは求めてないの。それでも大丈夫?」   成一が深刻な顔で言った 「ああ。要するに、カジュアルな関係でいようってことだろ?」  うっ、トムの真似だと分かっていてもグサリとくる。  すごくいやだ。かつての自分をみているようで。  でも、こうして話をできるのは、過去の恋愛にきちんとけじめをつけ、新しい人を真剣に好きになったからだ。  だから、後悔していないし、無駄だったとも思わない。 「……そんなつらそうな顔をしないでよ、ひどいこと言ったみたいな気持ちになっちゃったよ」 「悪い、なんか感情移入してしまった」  成一の手が、膝の上においていたおれの手に当たって、冷たさに驚いたみたいに慌てて引っ込められる。ごめん、寒かった?暖房つけようか、と声をかけてくれたが、いらない、と断った。 「わがままでも、自分勝手でもさ。かわいくて若いと許しちゃう男はたくさんいるもんね」  ブランケットを手に取り、おれの頭からすっぽりとかぶせて、成一が苦笑した。すぐ側にある顔は、電気を消しているのと逆行のせいで、どんな表情をしているのか分からない。 「けしからん。お前らみたいなのがああいう女を増長させんだぞ」 「申し訳ありません……?」  半疑問にイラっとしたが、のぞき込んでくる子犬のような眼がかわいかったので許した。いつだってこの世は惚れたものが負けだ、やむを得ない。 「罰として熱いお茶のお代わりをいれてこい」 「なにそれ。いれるけど」  立ち上がった成一が台所に消えたので、おれはソファを占領してクッションを枕に寝転がった。天井からぶらさがっているランプの形がおしゃれだな、とおもい、そのまま視線を壁沿いのアンティークらしき桐箪笥に移す。使い古された箪笥の上に、いくつかの写真立てが置いてある。  ソファから立ち上がった拍子に、ブランケットがラグの上に落ちた。そのまま歩いて写真立ての前に立ち、ひとつずつ眺める。  右端から、子どもの成一が初老の女性に抱きついている写真。ついこっちも微笑んでしまうような、愛くるしい写真だ。たぶん、成一は4、5歳ぐらいだろうか。かわいくてならない、という様子で成一を抱き上げている祖母らしき人は、結い上げた髪に和装の似合う、優しげな人だった。  隣の写真は、救急車の前で撮っているから前所属の人だろう。少し緊張した面もちの成一と、おだやかに笑っている六人部隊長、それに愛嬌のある顔立ちをした、ふくよかな男の3人。  真ん中にいるのは、あまりに表情が動かずどんなときでも冷静沈着だからという理由でつけられたあだ名、「鉄仮面の男」六人部摂。写真でみてもやっぱりかっこいい。無表情な六人部隊長しか知らないから、こんな顔もするのか、と驚き、すぐに気づく。そうさせたのは成一なのだ。あいつ自身は特別なことを何もしていなくて、ただ誠実にひとと向き合うだけ。けれどそれが、周囲の人を巻き込み、変えていくのだ。  最後の写真は、成一の兄である星野祥一と、髪の長い、とてもオシャレな女性、それに成一の3人で映っている。バーベキューかなにかしているのか、みんな両手に骨付き肉を持ち、煙の中で掲げてカメラに向かって笑っていた。成一と星野祥一は半袖のTシャツにジーンズやチノパン、女性は黒のワンピースにカラフルなサンダル姿、白い女優帽をかぶっている。 「それ、兄貴が今度結婚するひと。美人でしょう」 「ああ、それにすごくオシャレなひとだな。あんまりお前らと縁のあるひとに見えない、アパレルとかそっち系にみえる」  実家でいろいろごたついて、とは、結婚のことだったのか。そういえば、成一の兄は両親と折り合いが悪い(主に母親とは絶縁状態)なのだときいたことがある。おれんちのように、何かと家族で集まって食事をともにしたりする家じゃなければ、家族が勢ぞろいするってだけでも大変なことなのかもしれない。 「たしかに、仕事での接点は絶対ないかも」 「お前の兄貴、なかなかやるな、こんな美人を捕まえるなんて」  どうみても口数が少なく不器用そうなレスキューバカ(失礼)と、スタイルのいい、いかにもキャリアウーマンです!といった美女の組み合わせは、かなりのミステリーだ。まあ、星野兄も顔立ちは整っているし、スタイルときたらジェイソン・ステイサムもびっくりのマッチョなので、ふたりで並んでいると壮絶に絵になるが。彼がタキシードを着て、女性がウェディングドレスを着てにっこり微笑んだ日には、結婚式場の勝負ポスターの出来上がりである。 「三嶋先生つながりだね。ふたりとも、先生の大ファンだったから」  苦笑しながらそう言って、お茶をどうぞ、と促される。  油断して、お茶を飲みながらつい、「結婚かあ~、いいなあ~…」とつぶやいてしまい、成一にはっきりと問われてしまった。 「一保さんは、どういう人がタイプなの?つき合ってるひとはいないんだよね」  ゲイだ、と明かすのはこのタイミングしかない。――そう分かっていたのに、おれの口をついて出たのは別のことばだった。 「タイプとか、わかんねえなあ。いまはつき合ったことねえし。過去にすきだった人ならいたけど、うーん、待てよ、あれはつき合ってたことになるのか……いやセフレ……なんでもない」  首をひねりながらぶつぶつ言ったおれに、成一が意味がわからない、というように眉を寄せた。 「ええと、つき合ったことはないけど、片思いの人がいた、ってこと?」 「複雑なんだ。説明しづらい。しいていうならいまのタイプは、やさしくて誠実で、一緒にいて楽しい人、かな」 「…今はって…」 「だから、複雑なんだよ。つっこまずにさらっと流せ。そんな興味もないだろ、こんな話」  納得がいかない、という顔で唇をとがらせている成一の背中をばしんと叩いてから、おれはソファにもたれかかって眼をつむった。 「で、おまえが引っ越したのは、最近やたらと携帯を遠ざけてることと、関係あんの?」  隣に座っている成一が、固まっておれを凝視した。 「……どうして」  変だと思っていた。おれの知っている星野成一という男は、骨の髄まで「礼儀正しくて育ちのいい青年」である。  先にいっておくが、全く怒ってはいないし、お礼のメールなどというものを必ず送らないといけないなんて、思っていない。それでも、おれの家に来た礼を言う遅さや、さっきから携帯電話を全く見えない場所に置き去りにして陰もみえない点といい、おれの知っている星野成一からかけ離れているのだ。成一が携帯を常に側に置くのは、別に携帯依存だからとか、常にSNSをみないと気が済まない、とかではなくて、「人から連絡がきたらすぐに返したい」、という礼儀正しさや誠意の現れなのである。それが今はどうだ、まるで携帯電話なんかみたくない、とばかりに、自分から遠ざけている。 「前に言ったろ?おれは未来からやってきた未来人で、人の心が読めるんだって」 「いや、一保さん、前は「おれは超能力者だから人の心が読めるんだ」って言ってましたよ」 「誤差の範囲内だ、きにすんな」 「ええ~、未来人と超能力者は全然違いませんか」  おれの言葉に、成一がため息をついて立ち上がり、どこか遠いところに置いていたらしい携帯電話をもってきた。 「あんまり、こういうことしちゃいけないんだろうけど。もうどうしていいかわかんなくて」  眉を下げ、困惑をにじませた成一が、おれに携帯電話の画面をみせる。  表示された着信履歴をみた瞬間、「ヒッ」と声を上げてしまった。 「なんだこれ、マジか」  おれと同じiphone8の着信履歴は、すべてひとりの女性の氏名で埋まっていた。時間はちょうど1時間置きに「相田実日子」という人物からかかっており、指でさかのぼっていくと、およそ一ヶ月前から続いている。 「おまえ……この女とつき合ってたとかそういうの?」  さすがに見知らぬ女からこんなに連絡が来るわけがない。少なくとも一定の親しさがある人間なんだろう、と考え、おそるおそる質問してみた。すると成一は、困ったように首を振った。 「一度コンパで席が隣になって、連絡先を交換したんだよね。それから時々LINEでメッセージが来るようになって、おれも忙しいから、気が向いたときだけ返事してたんだ。そうしたらそのうち、仕事の悩みがあるから直接きいてほしいって言われて、外で会うようになって」 「出た、出たぞ必殺、「相談戦法」、おまえみたいなやつが一番やられやすいやつ!」  おれが笑っているので、成一がつられて笑いながら「ちょっと、忍術みたいな言い方するのやめてくれる!?ほんとに悩んでるんだから」と抗議してくる。  相談戦法とは、女がねらっている男によくやるやつである。はじめは本当に悩んでいることを真剣に相談するのだが、相手が優しく誠意ある人物であればあるほど相談を長引かせ、時には涙すら見せつつ、「成一くんのおかげでなんとかなりそう。本当にありがとう。今度、お礼にご飯でもごちそうさせて」と来て最後は自分を食わせるのである。しおらしい態度をとってまるで自分が補食される草食動物のようなそぶりをみせているが、あいつらはれっきとしたハンターなのだ。恐ろしいことに、やつらには相手の男に恋人がいようがフィアンセがいようが、最悪結婚してようが、関係ない。  成一のような人間はもっとも陥りやすい罠だ。むしろ星野成一のために用意されたハニートラップと言っていい。 「それで、やっちゃったってこと?でないとここまで執着してこないだろ、相手も」  突然飛躍した話とおれの怒ったような態度に、成一が「まさか。いっさい手なんか出してないよ」と力なく否定する。 「職場の上司からパワハラを受けてる、っていう話だったからさ、おれも似たような経験があったし、これはなんとかしてあげたいと思って、熱心にアドバイスしてた。夜中に泣きながら電話がかかってきたときも極力応じてたし……でもそしたら、なんかだんだん変な感じになってきて」  あるとき家に帰ったら、部屋の前に座ってたんだよね、と成一が言った。 「こう、荷物いっぱい持っててさ……夜眠れないから側にいてほしいとかなんか…いやそれはダメでしょって説明して、もう終電もない時間だったから一晩だけ泊めて返したんだけど。それから急に家にくるようになって怖くなってきて」  で、引っ越した、と成一は言った。 「情けないと思うけど、どれだけ説明しても分かってくれないんだよ。おれたちはつき合ってないし、男女なんだから家に急に来ちゃダメだよ、って言っても、いま好きな人がいないならつき合ってくれたらいいじゃない!って泣かれる。女の人に泣かれるのがおれ……ほんとダメで…泣かれちゃうと何もいえなくなるんだよなあ」  ソファの上で体育座りをしている大きい体を、声もなく、口を開けたままみつめた。ここまで来ると優しいとかそういう問題じゃない。  肩をつかんで揺さぶりながら、おれは言った。 「いや、それストーカーだから!!怖いから!おまえ警察相談した!?だめだって、そのままじゃ。わかってんのか?おまえは男で、相手は女なんだぞ」 「どういうこと?」  優しいあまり相手の悪意なんか想像もしていない成一に、いらいらとしながらおれは続けた。 「だからさ、もしこのままエスカレートし続けて相手の女が暴力沙汰に出たとしてもだ、その段階で警察に訴えたって、理解してもらえないかもしれないんだぞ。男のストーカーと女のストーカーじゃ、警察の扱いが違うんだから。おまえと交際関係にあったとか、レイプされたとか言い出したらどうすんの?そういう主張って、絶対女のほうが通るんだぞ。事実無根でも、仕事に響く可能性だってあるだろ!」  力じゃ圧倒的に有利な男だからこそ、こういう被害じゃ軽くみられがちなんだよ!とおれが力説すると、成一が手のひらで顔をおさえ、「……そうか、そこまで考えてなかった」とつぶやいた。 「まず、誠心誠意断ったのか?そこだよ最初は」 「もちろんはっきり言ったよ。今は忙しいし、君のことはタイプじゃないからつき合えない」  思っていたよりもはっきり言っていた。おれは思わず眼を丸くして「結構言うね!?」と叫んでしまう。 「家にまで来ちゃったからね。電話とLINEを着信拒否したら「死んでやる」っていわれたからそれは解除したけど」  絵に描いたような女だ。おれは燃え上がる怒りに身を任せそうになるのを、必死でおさえながらうめいた。 「そういうこと言う奴に限って100歳まで生きるから安心して拒否しろ」 「あ、うん……一保さん、あの。ちょっと離れて」  話に夢中になるあまり、成一の肩をつかんでソファに押し倒すような姿勢になっていた。 「ごめん」  すごすごと体をずらす。成一は、怒ったような、困ったような顔で目をそらして座りなおした。 「おれもそう思ってたんだけど、相田さんは本当に切ったんだよ。首を。頸動脈のすぐ近くを、サバイバルナイフで」  暗い声が告げた内容に、言葉をなくす。  成一は、ソファに座ったまま自分のてのひらをじっとみつめ、言った。 「着信拒否してたら、公衆電話からかけてきてね。今から死んでやるって言われて、部屋にいったら首切って倒れてた。ほら、おれこういう仕事だから、リストカットとか、自殺未遂もたくさんみてきたけど、彼女の「死んでやる」は本気だった。止血して、救急車呼んで――今は退院してるけど、あのときは心臓が止まりそうになった」  考え込んでしまうんだよね、と成一が言った。 「なんでそこまで、よく知らないおれのこと、好きだって思いこめるんだろう。思いこみで、自分の体を傷つけたり……。怖いし、イヤなんだけど、当事者だから放っておけないなあって思って、今は電話には出るようにしてる。そうしたら、だんだん分かってきた。彼女はおれを好きなんじゃなくて、そういうむちゃくちゃな自分を受け入れてくれたり、話を聴いてくれる人がほしいんだ」  そんなもん、みんなほしいに決まってる。でも、 「自分の人生の傷ぐらい、自分でなんとかしろってんだ。恋人でも家族でもない通りすがりに、甘えるにもほどがある」  もしかしたら妬みもあるのかもしれない。  成一から連絡をもらえる、かまってもらえる、心配してもらえる。女の子だから。遠慮なく甘えられるし、許してもらえる、そう思ってる厚かましさに腹を立てているのかもしれない。自分の決して切らないカードをさっさと切る、見知らぬ女に、怒りと同時に嫉妬をしている可能性は0じゃない。  でもなによりも。 「おれはそいつの甘ったれた根性に腹が立つ。優しさに甘えて振り回して、そんな相手をみて溜飲を下げる。なんてひん曲がった根性だ。ケツをけっ飛ばしてやりたい」  吐き捨てた後で、言い過ぎたかな、と思いちらりと隣の成一をみた。すると彼は、なんともいえない顔でじっとおれを見つめたあとで、声を上げて笑った。 「……ありがとう、おれのために怒ってくれて。すっごくうれしい」  それから、場違いにのほほんとした声でこう言った。 「一保さんって、かわいいなあ」  なんだと? 「おまえはなにをいってるんだ、頭イカれてんのか」 「だって、ぷんぷんしてたから。ひとのことなのに」  ひとのことじゃない、おまえのことだから怒ってんだよ!と叫んで地団駄をふんでやりたかったが、他人の家なので我慢した。 「成一はのんきなやつだな。警察、いくなら一緒にいってやるからな?知り合いいるから話通してやるし。いつでも言えよな?」 「大丈夫、ありがとう。最近は落ち着いてきたから。家に突然こられなくなったし、電話も減ってきたから」  でもちょっと怖かったけどね、と言って成一が眼を伏せたので、おれは安心させるように手を握って、あえてにっこりと笑った。 「おれはいつでもおまえの味方だ」  覚えてろよ。  そういうと、成一が破顔した。  眼がぎゅっとほそめられて、かっこいい、胸がきゅんとなる顔だった。  話が終わって時計をみると、もう夕方近くになっていた。  あんまり腹も減っていないので、おれたちは酒を飲みながら成一の家に置いてあった「ラブジェンガ」をすることにした。  ソファの前、キリムのラグに寝そべる。お互いの手には、コロナビール。おれが持ってきたグリーンレモンを切って、飲み口からつっこんであるのだが、これがなかなか上手い。アメリカでよく飲んでいた、うっすい味のビールを思い出して懐かしさもあった。  ちなみに遊び方は、様々なばかげた指令が書いてあるジェンガを引っこ抜いていき、指示に従うというやつである。従来異性を含めたグループでやって楽しむ遊びだと思うのだが、暇だったし、おれがジェンガが得意だという話からなぜか今やることになってしまった。  おれはラブジェンガをやったことがなかったので、始めてみてから指示のきわどい内容にびっくりした。ジェンガはピンクのブロックと白のブロックの二種類あって、白はコメディ的な内容で、ピンクははっきりいって割とエロい内容になっている。  序盤は、大した内容を引かずに済んだのでふつうに盛り上がった。  はじめにおれが引き当てた「パンツの色を発表」で「黒のボクサー」とすんなり答えたら、きいてないのに成一が「おれはグレイのボクサー」と頷き返してきて「いや聞いてねえし!」と爆笑したり、「2周するあいだ赤ちゃん語でしゃべる」を引き当てた成一が、「ほら、早く引いて……ほしいでちゅ」とぎこちなくいっているのをきいてなんだかほのぼのしたりした。身長180センチ後半のイケメンの赤ちゃん語かわいすぎか。あと2回ぐらい引けよそれを。  でも後半になってくると、ちょっと雰囲気が変わった。エロいジェンガが残ってきたのだ。  たとえば今成一が引いた、「右隣の人の耳に吐息」とか。  えっ大丈夫なのかこれ。大学の怪しげなイベントサークルで乱交用か何かに使うのか…? 「一保さん、こっちきて」 「やだよ!!おれ耳弱いんだ!絶対やだ!!」  映画をみているときにふたりでワイン1本、ビール6本開けてしまっていたので、正直割と酔っていたというのもある。 「まあまあ、ゲームだし」  冗談じゃない。成一にしてみれば男同士のおふざけで済むのだろうが(そういうのは我々男社会ではありふれている)、興奮しちゃったらどうしてくれるんだ。  じたばたしているおれを思いの外強い力で抱き寄せると、成一が耳元にふっと息をふきかけて「顔まっか。かわいい」と低い声でささやいた。  なに今の声、エロすぎ。勘弁して。  おれが顔を両手でおさえたまま四つん這いで突っ伏していると、酔っぱらった成一がにこにこしながら「ほら次、一保さんだよ~」と促してくる。おれの気持ちも知らないで、くそ…!  残りのビールをぐいっとあおってから、すでにグラグラになったジェンガのスキを探す。ここまできたら、負けるわけにはいかない。おれはジェンガと腕相撲では無敗なのだ。 「よし、これだ……ンッ!?」 「正面の人にキスする」  眼が点になっているおれの手からブロックを奪って、成一がかわりに読み上げた。その場がしん、として、おれは慌ててブロックを取り返した。 「いいよこれは。なんかちょっとシャレになんないし、もうやめよ」  しどろもどろになっているおれに、成一が首を傾げて、にっこり笑った。そして腹這いのまま、匍匐前進みたいににじりよってきて、両手でそっとおれの頬を包んだ。  ぐるりと視界が反転して、天井と成一が見える。押し倒されたのだ。 「せ、……ッ」  拒否する暇もなかった。流れるような自然な動きで、成一は唇をかさねた。ちゅ、と音をたてて離れていった顔をぼうっとみていると、「無防備だな、もう一回しちゃうよ?」と苛立った顔で言われた。 「いいよ。……して」  口がすべった。  うれしくてぼんやりして、願望をそのまま口にしてしまった。  そうとしか言いようがない。はっとして両手で口をおさえたがもう遅くて、成一は目を見開いて、数センチの距離でおれをみていた。  慌てて体を起こそうとしたら、もう一度顔が迫ってきた。嫌じゃないから拒否できず、おれは眼を閉じてその瞬間を待った。  ーー数秒間、眼を閉じて待っていた。けれど何も起こらなくて、ゆっくり眼を開く。明かりと一緒に飛び込んできたのは、成一がリンドウの花を持ったまま、おれの首筋をじっとみつめている姿だった。 「笑わないでね、」  成一の指が、震えながらおれの髪にリンドウをさしこむ。息をのみ、ただひたすらに眼を見つめ続けた。気のせいか、成一のきれいな琥珀色の眼には、うすく膜がはっているようにみえる。ーーきっと、気のせいに違いないけど。 「前に、これと同じことがあったような気がするんだ」  そんなはずないのにね。  無理に笑おうとした顔をみていられなくて、おれは腕をのばして成一を抱き寄せた。唇がふたたび重なり、今度はさっきみたいな軽いものではなくて、上唇を舐め、下唇を甘くかまれる。大きな手のひらがおれの頬を包み、髪をなで、耳たぶをさわった。背筋を快感が這い上がってくる。顔を傾けた成一が、小さい声で「口、開けて」とささやき、おれはその命令のとおりに唇をうすく開いた。熱い舌が入ってきて、そろそろと口の中を蹂躙する。舌がふれあい、ふるえるほど気持ちよくて、おれは両手で成一のシャツに爪を立てた。  呼吸が苦しくてのけぞると、成一が興奮した男っぽい顔でくちびるをはなし、首筋を舌でたどった。千葉にそうされたときは全く違う、ぞくぞくするような欲情が体の中からこみあげてきて、腰が浮いてしまう。歯を立て、きつく吸われて、声がもれた。 「ん、あ……せー、いち、まって」 「一保さん、このキスマーク、どうしたの?」  手のひらが強くおれを抱き寄せ、有無を言わさないとばかりに体が密着する。ふわふわとした成一の茶色い髪から漂ういい匂いと、下から見上げてくるすがるような視線に、心臓がやぶれそうだ。
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