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逃避行
昔々ある北の地の海岸沿いに男がひとり住んでいた。断崖絶壁の途中にある洞窟で崖から入ることはできず、海は年中荒れて舟が沖を通ることもなく、男は誰にも見つからず暮らしていた。
しかしある吹雪の夜、洞窟内で気配がして男は小屋の扉をあけた。小屋は洞窟内の石を積んだり崖上の荒野で拾い集めた木片を組んだもので、隙間はあったが寒くはなかった。洞窟の奥には温泉が湧いていて湿気のために冬は暖かい。温泉はなかなかの水量で海に落ちるまでのあいだを男は堰で区切り、上流から風呂場、洗い場、便所、と使い分けていた。気配がしたのはまんなかの洗い場で、男が小屋の入口から体をどかし、囲炉裏の火で照らすと少女がひとり倒れていた。洗濯に使う平らな岩の上でうつ伏せになり、意識はなかったが息はあった。顔や手は冷え切り男は抱き上げると小屋に運んだ。
少女は綿の入った防寒着を着ていたが雪で湿り、男は脱がせて寝床に入れた。寝具は毛皮で鹿や兎や狐の皮をつないだもの。見ばえはよくないが暖かい。囲炉裏に薪を足して火を強め、沸いていた湯を別の土鍋に移して干し肉のスープをつくった。もう1つ土鍋を用意すると薬草を湯でひたした。薬草は干されたものがいくつか壁に下がっていて、滋養強壮、鎮痛、消毒、解毒などの種類があった。
少女はまだあどけない顔でせいぜい15~6歳。長いあいだ眠り続け、目覚めたのは丸一日経った夜だった。まだ意識の朦朧とした目で周囲を見まわし、男に気づくと怯えて自分の服を確かめた。肌着とわかると毛皮にもぐり身構える。
男は縫物をしていて少女に気づくと「安心しろ」と目をそらす。縫物を続け「どこから来た」と聞く。
少女は怯えたまま男を凝視し、
「なぜここに――落ちたのか。身投げか」と男が聞くと少女の目は泳いだ。記憶を辿ろうとしているのがわかって男は答えを待った。
***
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