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空が赤く染まってきた。春分は過ぎたが日暮れは早い。私は開いたページにささっと言葉を書き足すとボールペンとともに彼に返した。
「す、すみません、長々とお引止めして。」
「いいえ、そんな大事な話をお聞かせ頂いて幸せです。因みにお近くなんですか?」
「あ?いえ。たまたま出張で隣町に来てて。明日は東京に戻るんで今日のうちに見に来ようと計画してたんです。やべ、そろそろ戻らないと。ほんとすみませんでした。あ、そうだ。アカデミー賞おめでとうございます。これからも応援してます。」
ぺこぺこと頭を下げながら駐車場に向かっていく岡野さんに軽く手を挙げて見送る。
「お互いを信じて末永くお幸せに」
書き足した言葉をそのまま呟いてみる。彼が書き加えた言葉に気付くのはいつかな、などとつい悪戯心が頭をもたげてくる。
エンジン音が聞こえたところで私も立ち上がった。もうすぐ四月とはいえ、この辺りはまだ肌寒い。
車のドアを開けるとふわりと線香の香りが漂ってきた。乗り込んで帽子を取ると助手席にポンと置く。目に入るのは食べかけのパンと黒いトートバッグ。
トートバッグからは細長いトロフィーの先っぽが申し訳なさそうに突き出ている。バッグの中に手を突っ込む。中に入っているのは美保の位牌と彼女の写真だ。
ここは妻、美保と出会った思い出の場所。そして彼女の故郷だ。
誰にも話してはいないことがある。あの映画のモデルは美保。
但し、映画のようにスマートに、劇的にハッピーエンド、とは決してならなかった。
彼女は映画の主人公と同じ、筋ジストロフィー患者だった。
筋ジストロフィー。それは筋肉の壊死・再生のしにくさが問題となる遺伝性筋疾患の総称だ。その結果筋力が低下し運動機能など各機能障害をもたらす。そしてこの病気もまた進行性であり、未だ根本的治療薬はない。最悪の場合、死が待っている。
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