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パンの焼ける香ばしい匂いがキッチンからしてきた。
はね上がり式の古いトースターは焼き加減を調節するのが難しい。
焼ける部分にムラができてしまうのだ。でも焦げて黒い部分があるのも古い家電特有のいいところだ。
そんなことを考えながら白いシャツにアイロンがけをしていると、トースターのチンッという音がキッチンで響く。
私はすぐさまシャツを抱えてキッチンに向かった。まだ途中で、しわは残っているが仕方ない。
キッチンはパンのいい匂いでいっぱいだった。といいたいところだが、パンは焦げるどころか燃える寸前だった。火事にならなくてよかった。
ちょっと空気の入れかえをしようと思い窓を開けた。
窓の向こうから朝陽が差し込んできた。ようやく夜が明ける。朝の陽光が部屋の隅まで届いてきた。今日は暖かくなりそうだ。春はいい。新たな生活を始めるにはとてもいい季節だ。
今日はいつもより少し寝坊した。
それというのも昨日、飲みすぎたせいだ。
私はテーブルに、テーブルクロスを広げた。
昨夜は素晴らしいパーティだった。
あんなに感動したのは何年ぶりだろう。卒業式や友達の結婚式、感動したパーティは色々あったが、私のためにあんなに人が集まってくれたパーティは初めてだ。
私が主役。三十年働いたレストランを辞める送別会だった。特に後輩からの激励の言葉に、いい歳した男が泣かされるなんて……。
私はキッチンの隅に水につけて置いたままになっている花束に目をやった。
そうだ、せっかくだからこれもどこかに飾らなくては。だがとりあえず花より朝食だ。
ガス台の前に立った。フライパンにベーコンを入れてカリカリに焼く。それから続いてソーセージにマッシュルーム、プチトマトとベーコン。卵を割りいれると、フライパンが小さすぎて崩れてしまったのでスクランブルエッグに。今朝の朝食はイングリッシュブレックファーストだ。
こんなに時間を気にせず料理をするのは初めてじゃないだろうか。私は昨夜の後輩たちの言葉を思い出した。
「あんな一流ホテルからヘッドハンティングなんてすごいじゃないですか!」
私は照れながら答えた。
「私が一番びっくりしているよ」
昨夜の私はお酒を飲んで得意げだった。
後輩がさらに尊敬の眼差しで言う。
「そのホテルって、世界の著名人や大金持ちが泊まることでも有名なホテルですよね。敷地も建物もすごく大きくて豪華で、それなのに廊下にはチリひとつ落ちてないって」
「いやいや、そんなことより私は、みんながこうして快く私を応援し、送り出してくれることが嬉しいよ」
ぼんやりしていると、具が焦げ始めたので私は慌てて皿に移した。ちょうど同時にトースターの横にあるコーヒーメーカーからゴポゴポ音がする。コーヒーのいい匂いも漂ってきた。私は皿をテーブルに置き、コーヒーメーカーの電源を切ったところで思い出した。
そうだ、アイロンがつけっぱなしだった。
居間に戻るとテレビがついていて、ちょうど私の星座の今日の占い結果が出ていた。
私はテレビを食い入るように見た。この占いは当たるんだ。今日の恋愛運は……最高。恋人とロマンチックな夕食を食べにいくといいでしょう、か。恋人はかれこれ何十年もいない。
私はテレビを消し、キッチンに戻りコーヒーを淹れた。少し冷めている。そもそも何をしに居間にいったのか忘れた。コーヒーに砂糖を多めに入れるのは私の習慣だ。そういえばこの私の習慣を料理長は嫌っていたっけ。
私は朝食を食べながら新聞を読んだ。
さて、寝坊したのであまりゆっくりしていられない。今日は新しい職場へ挨拶に行かなくてはいけない。
私は朝食を食べ終えると玄関に行き、靴を履いた。そしてドアノブに手をかけたところで、ふと鞄を忘れたことに気付いて振り返る。
廊下が朝陽でピカピカに輝いてる。
それもそのはず。私は床掃除が得意なのだ。
レストランでコック見習いとして働き始めて三十年間、毎朝誰よりも早く出勤して床掃除をした。調理の仕事では注意力が散まんだとか、不器用だとか、味覚音痴だとか色々注意されたが、床の磨き方にかけては私の右に出る者はいない。
「まさか一流ホテルの床清掃担当スタッフにスカウトされるなんてなあ」
朝陽で明るくなった廊下の、小さなほこりが目にとまった。ハンカチでそっとふき取る。
そして私は新たな生活に向けて玄関を開けた。
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