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零 雪天の記憶
父親の記憶はおぼろげだ――それは、璃子がまだ小学校に上がる前の冬休み。単身赴任中の父親が暮らす東京へ、母親と二人で会いに行ったとき。
「お父さんのいうことを聞いて、良い子にしてね」
璃子の母はそう言い残すと、璃子を置いて先に帰ってしまった。
どんよりと空は曇っていて、ひどく心細い気持ちになった。
璃子は泣いた。
ほとんど一緒に暮らしたことのない父親は、璃子にとって知らない大人だったからだ。
父親は「食べな」、そう言って、キャラメルをくれた。虫歯になるからと、母親に禁止されていたお菓子だった。それで璃子はさらに泣いてしまった。
父親の部屋は殺風景で、ますます悲しくなる。璃子の大好きなぬいぐるみもジュエリーセットもない。
「お母さんのところに帰りたい」
璃子の父は困り果てていたはずだ。
「璃子、お腹空いただろう? 美味しいお蕎麦やさんがあるんだ」
父親が連れて行ってくれたのは、細い路地にある『やぶそば』の看板をかかげた小さな店だった。店内には、テーブル席が六つだけ。
父親は子供が好きな食べ物なんて、思いつきもしなかったのだろう。少しも躊躇することなく言った。
「これが、東京の蕎麦だ。年越しそば、食べたことあるだろう?」
もりそばを前に、璃子は戸惑った。璃子の暮らす街で年越し蕎麦と言えば、温かい出汁がかかった『かけそば』を指す。しかし、それを告げることもできなかった。璃子にとって父親は、やはり知らない大人だったせいだ。
父親が、璃子の顔を覗き込む。
「せいろそばだよ」
おそるおそる、蕎麦をすすってみる。すると。
【氏神様が心配ですねぇ】
どこかから、父親以外の声がする。璃子はゆっくりと顔をあげた。
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