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「ありがとうございましたー」
そこには、店員と、店を出ていく客の背中があるだけだ。もう店内には、璃子と父以外、他に客はいない。
「璃子、どんどん食べろ」
璃子は小さく頷いて、もう一度そばをすする。
【お稲荷さん元気かねぇ】
再び声が聞こえた。驚いた璃子は、今度はすぐさま顔をあげた。
きょろきょろと辺りを見渡していると、厨房の中の男と目が合った。
「おいなりさんが、心配なの?」
璃子は思わず訊ねてしまった。
「え? ああ、そうだねぇ。おじさん、お稲荷さんが心配で。どうして分かったんだい?」
可愛らしいことを言う璃子に、蕎麦屋の店主である男は目を細めた。
「いなり寿司がどうかしたんですか?」
璃子の父が不思議そうな顔をする。
「お客さん、そっちのいなりじゃありません。私が心配しているのは、神社のお稲荷さんです。再開発だってんで、氏神様が今はビルの屋上に追いやられちゃってね。ちっさくてみすぼらしい社殿が、不憫でさぁ。寂しくねぇかなぁって」
店主は、ため息混じりに言うのだった。
「おいなりさん、寂しいの?」
璃子は、自分のことのように悲しくなった。
「お稲荷さんは、どうだろうな。おじさんにとっては下町がふるさとだから、変わっていくのは寂しいもんだねぇ。神社は、店の正面にあるビルだ。良かったら、お父さんと一緒にお参りしておいで」
厨房から出てきた店主が、テーブルにオレンジジュースの入ったグラスを置いた。
「これサービス」
「ありがとうございます。ほら、璃子もお礼を言いなさい」
「……ありがとう」
ボソリという璃子の頭を、店主はなでた。
愛想の良い店主がいることを、璃子の父親は知っていたのかもしれない。
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