弐 朝餉はごゆるりと

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 それだけでも過敏になるほど、経験値は低い。自分を守るように覆いかぶさる、案外とゴツゴツとした逞しい身体に、璃子はうろたえてしまった。  ただし、その身体は透けている。相手はやはり神様なのだ。  ――とはいえドキドキするし。 「ちょ、なにするんですか!」 「うはっ!」  ぐーっと、伊吹の顎を押しやって璃子は逃れようとする。 「璃子さん、あ、足元!」  そうする中、ビャクが怯えるように叫んだ。  地面を見下ろすと、アスファルトがゆらゆら揺れている。凝視するうちに、足元に黒い霧が溜まっているのだと気づく。それはやがて人の手の形となり、璃子の右足首をつかんだ。 「ひー」  その場でバタバタと駆け足したが、右足はたいして上がらない。むしろ地面へと引かれる感覚がする。  もう片方の足で振り払おうとしようにも、黒い手には実体がない。  ずるん、つま先が泥のように粘度を増したアスファルトに沈んだ。  ――ありえない。  どうか夢か幻でありますように、と璃子は現実逃避した。 「り、璃子、の、祝詞(のりと)を」  璃子に顎を押されたままの伊吹は、苦しそうに言った。 「えっ?」 「み、みそぎはらえのことばーーっ!」  璃子が手を離した途端、伊吹が叫んだ。 「璃子さん、伊吹様にお祈りしてください。祓い給い清め給え、と」  胸の前で手を握りしめたビャクは、泣きそうな顔をしていた。  ――唱えればいいの?  璃子は半信半疑で、さらに震えながら、その言葉を口にした。 「はぁらいたまいぃきよめたまえぇ」  すると、伊吹の身体が内から発光する。煤色の髪は輝き、轟と下から吹き上がる風に逆立った。  状況を理解しようにも頭がついていかない。もはや身動きも取れず、璃子はただ成り行きを見守るだけだった。 「ここは汝の在る場所ではない、この者に憑くは許さん、直ちに(かえ)れ」  それまで耳にしたことのない、地を這うような重々しい伊吹の声。黒い霧が閃光に弾かれると、璃子の足はとたんに軽くなる。  それから、しゅるり、黒い霧は空へ立ち上り消滅した。  すぐさま璃子はへたり込む。  ――な、なんなの?  和食屋の店先に並ぶ人の列。何事もなかったかのような景色が目の前に残される。観光客らしいグループが、座った状態で道を塞ぐ璃子へと、迷惑そうな視線を注ぎながら通り過ぎて行った。
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