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どこにもいけないわたしたち
長い出張だった。
仕事を終えた翌日、少しでも早く彼に会いたくて、始発を乗り継いでやっと帰ってきた。
彼はまだ寝ているだろう。顔を見られるだけでもいい。
眠りの浅い人だから起こしてしまうかもしれないけれど、そのくらいきっと許してくれる。
なんなら起きてくれたらうれしい。寝ぼけまなこで甘えられたら、もう疲れも吹っ飛ぶ。
そんな甘い想像は、玄関に入ってすぐ、消えさった。
女物の靴、ひそやかな物音、囁くような声。
答え合わせをするまでもない。
心臓が、ドクドクとうるさいくらいに鳴っている。
見たくない、と思った。
それでも、見ないという選択肢は取れなかった。
震える手で寝室のドアを開けると、
ベッドの上で、見知らぬ女を抱いている愛しい男と目があった。
その瞬間、私の中に言葉にならない思いが大量に押し寄せてきて。
その勢いによろけて、ドアにもたれかかる。
まるで、乗車率300%の満員電車にでもなった気分。
「死ね」
彼という駅に着くと、私の口からは、ただひとつ、そんな言葉が出てきた。
乗客は皆、その言葉と共に降りてしまったらしい。
言葉は、何も含んでないかのように流れて、私の中から、全てが消えてしまった。
怒りも、悲しみも、確かにあったはずのものが心の中からポッカリいなくなって、
私は目の前の男にそれ以上の言葉を伝えることができなくなってしまった。
「なに、言ってんの?お前」
彼は、少しだけ戸惑った顔で私を見ていた。
浮気なんて、日常茶飯事で。
現場に遭遇したのは初めてだけど、彼は当然、私が許すものだと思っていただろう。
今まではそうだった。怒ったり、泣いたりしても、最後はごまかされてきた。
けれど今は、そんな言い合いを想像するだけで面倒くさい。
「もう、死んでいいよ、あんた」
「…死なないけど」
「別に死ななくてもいいけど」
もう、いいよ。
私、あんたが死んでも死んでなくてもどうでもいい。
本当は、数分前の私なら、絶対、彼がいなきゃ生きていけないとさえ思っていたのに。
「…ごめん」
彼は、静かに謝った。
これまでのいくつかの謝罪よりかは心がこもっていたかもしれない。
でも、どうでもいいんだってば、もう。
彼の隣にいる女が少し優越っぽい笑みを浮かべているのにさえ、何も感じなかった。
「謝らないでいいから、もう私に関わらないでね」
別れ話の代わりにそう伝えると、神妙に俯いて、首を振る。
「……ごめん」
彼は、もう一度謝った。
私は、頬に力を入れて、笑った。
意味もなく。
彼は、どうしていいのかわからないような顔で、私を見てた。
何も言わずに、部屋を出る。
すぐに、追いかけてくる音。
捕まる腕。
「…何?」
振り向くと、彼にしては珍しく必死な顔をしていて。
それにさえ、何も感じなかった。
怖いと、思う。
さっきまで、確かに目の前にいるこの人のことばかり考えていたのに。
もしかしたら、今は感覚が麻痺しているだけで、しばらくしたらどうしようもなく辛くなるのかもしれない。
でも、少なくとも今は、彼の顔を見ても、感情を返す気にはならなかった。
「許して」
なんて可愛らしい言葉だろう。
子どもみたい。
彼がこんなことを言うなんて、思いもしなかった。
そんな場面じゃないとわかりながら、笑う。
「許すもなにも、別に、怒ってないよ」
彼の手に、力が入った。
引き寄せられて、抱きしめられる。
「だから、怒れって言ってんだよ」
気持ちをめいいっぱいこめた、震える声。
今にも爆発しそう。
「無理だよ」
対照的に、私の声は冷たく響いた。
「だって、怒る理由が見つからない」
あなたのことなんかどうでもいいと言ったも同然で。
彼は、それならもういい、と言うはずだった。
私の気持ちだけで続いてるような関係で、彼は私のことなんかどうとも思ってなくて。
だから、いつもどおり突き放してくれればいいのに。
その腕は、だらんと落ちて。
「…んで」
その声は、力なく落ちて。
目からは一滴、涙が落ちて。
何もなくなった心に残るのは、空しさだけ。
満たすのは、あなたじゃない。
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