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あの日
1
平木に初めて会ったのは五年前の春で、私が店を開いてから三年が経ったころだった。
長身、細身でスーツの似合いそうな体型であったが、顔は青白く、猫背で店内に入ってくる姿はいかにも覇気がなかった。
私は初め、あのような陰気な顔で長居されては商売に差し障ると思ったほどであった。
私はある理由で二十年間勤めた銀行を辞め、小さな喫茶店をやっている。
もう八年が過ぎ、すっかり軌道に乗っているのだが、会社を去ってからおよそ半年は、何も手につかず、起きて三食の飯を口に突っ込むほかは、ただ息をしているだけの生活だった。
妻と二人の娘はそんな私に愛想を尽かして、まもなく家を出て行った。
私は、食うにも困るようになり、しばらく新聞配達のアルバイトをしていた。
そんなところに、たまたま駅前に小さなテナントを見つけたのと、祖父の遺産の分け前が入ることになった時期が重なり、若い頃からの夢であった小さな喫茶店を開いたのだった。
「お近くですか?」
平木に初めて話しかけた言葉ははっきり覚えている。平木が私の店に通いだしてから四日目だった。
彼は毎日、客のいない時分、開店と同時に入ってきた。カウンターばかり七席しかない店では、たった一人の客と黙然と過ごす時間は耐えがたい。
私は、前日から彼が来たら、この言葉をかけようと決めていた。
平木の反応は意外なものだった。
私との間にある垣根を取り払うような表情をこちらに向けてきたのである。
「四丁目です。娘を保育園に送っていった帰りで…」ボソっと語り始めると、ポツリ、ポツリと、屋根から水滴が垂れるようにしゃべりだした。
私はモーニングのBセットをこしらえながら、時折、相槌を打った。
「妻は娘を産むと同時に亡くなりまして…」
保育園に通う娘と二人でアパート暮らしだと言う。
青白い顔に度の厚いめがね。
食器を覆うように背を丸めた姿は、悲壮感の漂う中年男を絵に描いたようであった。
「それから仕事が手につかなくなり、会社も辞めまして。コンピューター関係の会社だったんですがね…」
聞くと私と同じような境遇だった。今は、孫受けの形で、自宅でプログラミングをしているという。
私も話を合わせて、ある事故が原因で銀行を辞めたことを語った。
「情報漏えい事故だったんですよ。しかも大量の・・・」
私は手元の作業を続けながら語った。
「結局、私が責任を取る形でその会社を・・・」
店の中には私達だけだったこともあり、思いに反して詳しく話していた。
平木の話し方は、淡々と話すといったのではなく、言葉と言葉の間に数呼吸分の奇妙な間がある。
それが余計に陰鬱さを増す。
出てくる話は暗いものばかりで、私はこんな時にほかの客が入ってこないことを願った。
平木が通い始めて数ヶ月が経った頃だった。
店に流れるエフエム横浜の「町のサークル紹介コーナー」で、主婦のバドミントンサークルをリポートしていた。
平木は、トーストを掴んだ手を止め、何かを考えながら、ジッとそのリポートに耳を寄せていた。
リポートが終わるのを待って、私は「お知り合いでも出ていましたか?」と声を掛けた。
「いえ、別に…」
チラッと私に視線をやった平木は再び、伏目がちにトーストを口に運んだ。
他の客がいなかったので、私から会話を求めた。
「主婦はいいですね。旦那は会社であくせくしている間にバドミントンでワイワイやっているんですからね」
「私も会社を辞めた身ですから、他人のことは言えません…」
「そう言われれば、私だって、今は喫茶店のマスターですから同じようなもんです」
二人の間にわずかな笑いが漏れた。それは、競争社会からはみ出した男同士が傷を舐めあうようでもあり、互いの気楽な身の上を喜び合うようでもあった。
「バドミントンか…」
平木は、感慨深げにそういった。いつものようなくぐもった物言いではなく、芯のある言葉に聞こえた。バドミントンに何かの特別な思いがあるようだ。
私は後に続く言葉を期待しながら、ランチの下ごしらえをしていた。
平木がなかなか言葉を続けないので、こちらから「私は中学のときにバドミントンをやってましたよ」と披瀝した。三年間続けたというだけで、さしたる成績も残せなかったが、私がまともにできるスポーツといえば、バドミントンくらいであった。
私の中学時代の経歴を聞いた平木が顔を上げて私を見つめた。
「実は、私も学生時代にバドミントンにはまってまして…」
瞳の奥に誇らしげな光が浮かんでいる。私は始めて平木の活き活きとした眼を見た。
次の質問を明らかに期待しているようなので、私は平木の思いに応えるように、「どれくらいやっていたのか」とか「どんな成績を残したのか」といった質問をした。
聞けば、平木は高校時代の県の大会でベスト四に残ったことがあり、実業団のスカウトがわざわざ高校に練習を見に来たこともあるという。
私と平木の間が急に縮まったのは、それからである。
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