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天下の江戸も夜は暗い。しかしその一角に、眠る事を忘れた町がある。
大門を抜けて、目に入るのは通りを照らす色鮮やかな提灯明り。連なる店が吊り下げた色とりどりのそれらは、赤、黄、青、白と煌々。
灯りの下で、町のそこここから聞こえてくるのは甘い囁き。男と女の睦事が、通りから、路地裏から、屋内からも。
町全体が酒や見世が焚く香、女の白粉と、甘い匂いに包まれている。
ここは吉原。
夜も明るいこの町で、男は女を買い求め、女は男を誘う。一夜限りの夢を見に人々が集まる様は、まるで誘蛾灯。
とはいえ人が集まればそこに荒事はつきもの。
裏に入り込めば、やれ物盗りだ、やれ喧嘩だと。
まあ、これも吉原の醍醐味だ。女を取り合い殴る蹴るの大喧嘩をしていた男二人が、この地の治安を守る吉原会所の吉原衆に表通りまで引きずりだされて喧嘩両成敗となるのも、訪れる者達とってはよい見世物である。
最近では小火騒ぎも多いとかで、人々もちょっと浮足立っている。
この煌々とした吉原において…しかし、ひっそりと夜闇に包まれた部屋があった。
遊女の中でも座敷持ちが使う一等部屋。本来なら特に明るい光が漏れていなければおかしいその場所で、向かい合う男女が一組。しかしそこに色ごとの艶めかしさは一切感じられない。
女はこの部屋の主たる遊女朱莉。鮮やかな紅の着物が似合う女だが、特筆して美しい顔貌でもない。せいぜい十人並みやや上。しかし通な遊び人の間では妙な人気があった。
対するは最近彼女の贔屓となった頭巾男。凝った模様の錣頭巾に上等な羽織、身なりから裕福な身分である事は察せられるが、その顔をすっぽりと覆う頭巾が外されるのを朱莉は見た事がない。
吉原を訪れる者の中には人目を気にして顔を隠す者も多い。それでも室内に入ってまでそのままというのは珍しい。
彼は素鼠と名乗ったが、それは彼の頭巾が素鼠色だからだろう。
素鼠はおかしな客である。朱莉を買うのも安くないのに、最初の訪いからこちら、ただの一度も体を求めた事がない、いつもふらりと現れては、朱莉に酌をさせ、なにか楽しい話をと乞い、あるいは遊戯に興じる。それだけ。
『初会で床に首尾せぬは客のはじ、うらにあわぬは女郎のはじ』とはいったもので、床入りまでの三度の訪いなど今は昔。初日に共寝まで持ち込めなかった朱莉は素鼠に焦れたものだ。
その素鼠が、今日一番に「土産だ」と見せてくれた風呂敷包みをほどいている。部屋の灯りを消してくれと頼んだのも彼だ。
「なんでありんしょう?」
素鼠に問いかけながら、朱莉は…この人は本当に何者だろうと思うのだ。
素鼠が何者であるのか、朱莉は知らない。ただ、上客である事は彼が現れるたびに、店主がもみ手で迎え入れる事からもわかる。一度店主に確認した事はあるが、「余計な詮索はするな」と怒られた。
素鼠の訪いは、楽である。
朱莉の客は様々だ。乱暴な人、優しい人、気弱な人、居丈高な人。
毎晩違う相手の、違う接し方はやはり疲れる。だが、素鼠にはそれが必要ない。
彼が朱莉の話を乞い、それに応えればうまい具合に合いの手が入り、時に質問をして話の誘導すらしてくれる。
遊戯に詳しく、朱莉の知らぬ外の遊びを持ってきて、一晩をあかした事だってある。
ある日、連日の疲れからうたた寝してしまい、布団の上で目が覚めたなどという失態すらあったが、素鼠が朱莉を布団まで運んでくれたらしい。
その時の例外は除くが、彼は決して朱莉に許可なく触れなかった。女として求めなかった。
楽ではある――が、とことんおかしな客なのだ。
彼の土産もおかしい。
香、簪、煙管、と贈り物としては普通なのだが、なんというか、物がしょぼい。
粗悪品ではない。江戸の庶民が買い求めるような古物でもない。しかし、見るからに上質な着物を纏う素鼠が贈る品にしては、あまりに質が“並”。彼ならば、もっと高価で煌びやかなものに手が出せるだろうに。
今回も風呂敷から取り出されたのは、随分と薄汚れた木箱だった。
「悪いな、とっさの入れ物がこれしかなかったらしい」
頭巾越しの声はくぐもっていて、正確な年齢を悟らせない。張りのある手を見るに、若いのだとは思う。
素鼠が箱の蓋を開けると、中からふわ、と小さな光が宙へと零れ出た。計六つ。
小指の爪ほどの大きさの、青白く丸い、淡い光。空中で、ほわ、ほわ、と光は消えて、また灯って、また消えてを繰り返している。
「蛍?」
夏の風物詩、蛍。なるほど、これが今回の土産か。
広く暗い室内で、蛍の小さな光はなんとも頼りない。だが小さな箱から解放された彼らは、思い思いに部屋の中をふわふわ、ほわほわ、舞い光る。「綺麗」と感嘆の声が朱莉の唇から漏れた。
「そうか、蛍か」
素鼠の視線が、朱莉に向いていた。朱莉が首を傾げると、「君の目の事だ」と素鼠は少しだけ顔を近づけた。
「君のその輝く目を、ある者は星と称え、ある者は日に輝く水面と例え、ある者はこの吉原の夜だと言った。しかし俺は、今その輝く目を見て思う。
君の目は、この蛍のようだ、と」
素鼠の目は真摯で、そこに他の男達が使うような世辞はない。
ほろ、と朱莉の目から涙が零れた。一度決壊したそれは止まらない。素鼠は思いもしない朱莉の反応に慌てたようで、それでも許可を取ってから朱莉に近づき、背中を撫でてくれた。
「どうした朱莉。この土産は気に食わなかったか?」
「いえ、いいえ、違いんす。ぬし様がこの目を、わっちの目を蛍のようだと」
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