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朱莉の出身は神田にある裏長屋で、まるで人間の掃きだめのような場所だった。九尺二間の狭い家に、両親と兄妹三人が寿司詰めのように押し込まれ、年中どぶと肥溜めの臭いが漂っていたのを覚えている。
一家の働き手である父親は通いの料理人であったが、その父が帰宅途中に荷車に轢かれて利き手に怪我を負い、一気に生活がままならなくなった。朱莉の身売り話が上がったのはそんな時だ。話はとんとん拍子に進んで、気が付けば朱莉が家を出る日も決まっていた。この辺りを深くは語るまい、当時十歳になったばかりの少女の意見など、誰も聞いてはくれないし、聞いてもこない。
ただ、一人だけ怒ってくれた人間がいた。隣に住む棒手振の息子で、名を栄吉。朱莉の一つ年上の幼馴染である。
元々、勝気で我が強く、いつもなにかに怒っているような子だった。
その栄吉が、朱莉が売られていくのだと知った時、まず
「逃げよう」
と言ったのだ。
十と十一の世のなんたるかも知らない子供が二人、気が付いたら手と手を取り合って長屋を飛び出し、大通りを抜けて、橋を渡り……。
知らない道を、逃げて、逃げて、逃げて、――ひたすら、大人のいない場所を目指していたように思う。
とはいえ、子供の体力にもそして時間にも限界がある。昼過ぎに長屋を飛び出した二人はあちこち彷徨ううちに大きな川に辿り着いて、そこで日も暮れた。
「木戸が閉まったら身動きが取れない、今日はここで一晩明かそう」
栄吉はそう言うと、落ちている木の枝や枯草を拾い集め、家から拝借してきたという火打ち石で火を起こしてみせた。
焚火の前に、栄吉と朱莉は並んで座る。――ここはいったいどの辺りだろうか。夜闇で遠くまでは見渡せられない。目の前の川は、家の近くにある神田川よりよほど大きい。近くに掛かっている橋も、見た事がない長さだ。
朱莉の不安を察してくれたのだろう、栄吉が朱莉の頭を撫でてくれた。その掌は、彼が起こしてくれた焚火よりもよほど暖かくて、優しい。
「どうして、連れ出してくれたの?」
朱莉と栄吉は、決して想い想われのような関係ではない。なのに彼は売られていく朱莉を連れて逃げてくれた。
「許せなかったから」
「許せない?」
「なんていうか、色々」
栄吉の顔が、なんともいえない形に歪む。嫌悪、怒り、迷い。
今思い返せば、栄吉もなぜこんな事ができたのか自分で解っていなかったのだろう。ただ、子供らしい正義感、大人への反発、身売りという言葉に対する不快感。それらが混ざって、彼に行動を起こさせたのではないか。そういったもろもろの感情が「許せなかった」という言葉になったのではないか。
一晩この場で明かすと決めたはいいが、そう眠れるものではない。ただぼんやりと、二人で川を眺めていた。そうしていると、見ないようにしていた不安がじんわり滲み出てくる。これからどうするのか、どうすればいいのか。
聞こえてくるのは、水の流れる音、風の梢を揺らす音、虫の鳴き声。
見えるのは、そう、蛍が飛んでいた。
蛍は水の綺麗な場所に住まうという。この川もそうなのだろう。
最初は数匹だった蛍が、時間の経つごとに増えていって、いつの間にか視界いっぱいに光が飛んでいた。ふわふわ、ほわほわ。
光って、消えて、光って。この光の中にいると、今世界には自分達しかいないように錯覚する。朱莉と栄吉の手が握り合わさって、指と指が絡んだ。互いの距離がさらに縮まって、朱莉は栄吉の肩にもたれかかる。栄吉の汗の匂いが鼻孔を通って肺に満ちた。
「蛍は死んだ人の魂なんだって。だからこんなに綺麗に光るんだ」
「私は、蛍は恋をするから光るって聞いた」
栄吉の呼吸が触れた体から伝わってくる。そうすると朱莉の腹の下がほんのり暖かくなった。
「川の底は、あの世に繋がっているらしい」
なぜ、栄吉は死にまつわる事ばかり口にするのか。
「俺達も死んじゃおっか」
世間話のような気軽さで彼は言った。朱莉はつい最近聞いた心中話を思い出す。表長屋に住む子が寺子屋に持ってきた書冊の物語。難しい内容だったが、書冊を持ってきた子が身振り手振りを交えて内容を説明してくれて。
それは、結ばれぬ男と女の悲恋話だった。燃えるような恋の果てに二人で逝ったその結末。
話を聞いた友人達は涙した。朱莉も泣いた。
あのお話に、私達もなる。栄吉と、あの美しくも悲しい二人に。
しかも周りは蛍の群れ。幻想的な世界に包まれて、二人で儚く散るのだ。
それは、とても素晴らしい事に思えた。大人達の意思に逆らってここまで連れ出してくれた栄吉となら可能に思えた。
「死んじゃおっか」
朱莉も頷いた。お互いの顔を見つめあう。
そうだ。二人で美しく、儚く散ってしまおう。苦しい現実から二人で手を取り合い、誰も届かぬ場所まで一緒に逝こう。
栄吉の目が、輝いていた。きっと朱莉も同じ目をしている。恋をすると人間の目は輝くのだという。今、二人はお互いに恋をした。あの世の果てまで共にできると誓った相手に、恋をした。
周りの蛍が、光って、消えて。その光を反射して、お互いの目も、きらきら、きらきら。まるで目の中に蛍が宿ったように。
どぼんっ。
と、派手な水音が川のほうから聞こえた。なにかが流れてくる。ばしゃばしゃとなにやら水の中で暴れているのだが、夜闇でよく見えない。水音に紛れて男女の声も聞こえてきた。
栄吉は駆けだすと、着物を脱ぎ捨てて川へと飛び込んだ。朱莉はおろおろと周りを見回して、そうして流れてくる船を見つけて、大声で呼ぶ。
船頭が朱莉に気づいて、そうして川に溺れていた男女と、栄吉を引っ張り上げてくれた。
どうやら心中には先客がいたようで…。
おかげで朱莉と栄吉はすっかり時期を逃してしまった。
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